携帯のデジカメは退化すべき。

カメラ付き携帯はデジカメに取って代わるどころか、今のデジカメと比べると物足りないとこの報告書を執筆したアナリスト、ビル・ヒューズ氏は語る。カメラ付き携帯は、コンシューマーが求める「解像度の向上」「撮影した写真のより柔軟な利用」を満たすことができない。

専用のデジカメと携帯電話についているデジカメを比べれば、解像度、使いやすさ、バッテリなどなど、ほとんど全ての面で専用のデジカメが勝っていることは間違いない。唯一携帯電話についているデジカメが勝っている点は撮影したデータを通信で送ることが出来る点くらい。

ただ、通信でデータを送ることを考えると、そんなに高解像度である必要はない。携帯で撮って送られてきた写真を見るのは、携帯で見るのが一番多いと思われ、その携帯で表示できるサイズで考えれば320x240、まぁモブログなどでホームページなどに使われることがあるかもしれないと考えても640x480もあれば、解像度的に十分だと思われる。


200万画素や300万画素という、ちょっと前のデジカメに匹敵するほどの高解像度のデジカメを搭載した携帯が多く発売されているが、果たしてその高解像度での撮影を実際に使っているユーザーはどれほどいるのだろう?

携帯とデジカメを両方持ち運ぶのは嫌だから、なるべく高解像度のデジカメを積んで欲しい、というニーズはあるのかもしれないが、そういう高解像度デジカメ搭載の携帯と一般のコンパクトデジカメを両方使ってもらって携帯のカメラで満足できるという人はほとんどいないだろう。

無理して積むもんだから、実用に耐えないほど記録に時間がかかったり、手ぶれしやすかったり、バッテリの問題から常用するには厳しかったりするわけである。


そんなところにコストをかけるなら、もっと別なところにコストをかけてもらった方がありがたい。

携帯に搭載されるデジカメは、上述のような写メールで送りあったりモブログに使ったりというくらいで考えれば、せいぜい100万画素もあれば十分である。


高解像度を売りにしないと売れないから、などと言うのは単なる技術の無駄遣いであるとしか思えない。

誰に向けての情報発信か。

パソ通経験者のじじぃとして興味深く読んでいる話題。

id:yas-toroさんとのやりとり、どっかで見てる人がいるような気がしていたところ(というのもやはりはてブのおかげ)、id:kanoseさんからの反応。

パソ通経験者のじじぃって言われると思わずビクッっとしちゃいますが(笑) 自分はまだじじぃじゃないはずだ!!(と思ってるのは自分だけかもしれませんが)

超乱暴に要約すると、パソコン通信時代のほうが本気で言葉をやりとりしていたなあという話。って書くと、じじぃの回顧話かよ!ってなるけど、これは掲示板と情報発信を主体にしたサイトというスタイルの違いの話ではないだろうか。

スタイルの違いというのは確かにありそうです。


パソ通時代は、最初の切り口は多人数相手な形ですが、その後に続くレスのやり取りは基本的に1:1のやり取りですから、メールとかのやり取りに似てますね。より狭い相手に向けているほど密度の濃いやりとりができるのは自明。


どうもそういう文章に比べると、ブログで多人数の読者を想定して書く記事はなんか的が絞れないというか、最大公約数的な記事というか、多くの人に向けて書くことで言いにくくなったりぼかしてしまったりすることが多いかも。

なんだろう、敵を作らないような文章というか。おかげで、はてブでネガティブコメントもらうことはほとんどありませんが、それはそれでなんか寂しかったり(苦笑)

名刺交換に見る意識の変革。

端的にいうと、名刺交換が始まるオフ会はアフターブログ世代。名刺交換はしないのが、ブログ以前からネットやっていた世代。

ここで言ってる名刺交換ってのは、リアルな属性での名刺、つまり職場の名刺などを交換することですね。


パソ通時代のオフ会には何度も出たことがありますが、確かにネット上のハンドルの名刺はみんな作ってきて交換してましたが、そこでリアルな名刺を出す人ってほとんどいなかったように思います。

アフターブログ世代なオフ会は未体験なので分かりませんが。



うーん、今ブログを通じて知り合った人とオフ会したとしたら・・・やっぱハンドルで名刺作って持っていくような気がする。ビフォーブログ世代だ!!(笑)

ニュースサイトのニュースソース。


このブログでも、たまに記事がニュースサイトに取り上げられて瞬間的にアクセス数が爆発することがあります。

もちろん自分が書いた記事を紹介してもらえるのはとてもありがたいことなのですが、記事がニュースサイトを伝言ゲームのように伝わっていくうちに参照元があやふやになってしまうことを危惧した記事を読んで同感。

しかも、ともすればこの『名言集』というエントリが、「『カトゆー家』の情報」として扱われてしまう。大手ニュースサイトが取り上げた後は、孫ニュースサイトが取り上げるものですが
「偉人たちの名言集 (カトゆー家)」
などとリンクしてあると、「それ書いたの俺だよ」と突っ込みたくなります。時には「名言集 (九十九式経由)」とか書いてあったりして、「オイオイ経由じゃなくて発信元だよ」と苦笑してしまいます。


もちろん、ニュース元の言及も大事だと思いますが、発信元はそれ以上に大事な情報です。発信元の確認と記載は行った上で紹介していただけると嬉しいなぁ。



え? 私? 孫ニュースサイトに流れるほど話題になる記事を書いたことはありませんけどね(笑)

偶然の一致? それともインスパイア?

ウェブ上でいろんなサービスを次々に展開してくれるという点で、ここはてなを使い込んでるんですが、じゃあ、他のウェブサービス会社でそういうところがないのか?と言ったら、はてなほどでは無くても数社ほど新しいウェブサービスを展開させているところはあります。


その中でもサービス数を見たら結構いろんなことをしてるのがライブドア。でも、その新しいサービスを見に行く度に気になるのが一発でパクリいやインスパイア元が分かるデザインの酷似さ。

Broadband Watch編集部ブログ: そのデザインは誰のもの?

どう見ても意図的に似せているとしか思えないほど似てる。


別に新しいサービスを始めるに当たって、他者のサイトをパクるな!とは言いませんが、ここまで似せてると元サービスから客を奪って誘導しようって雰囲気がありありと感じられて印象悪いです。まさにインスパイア。


更にこんな記事も。

Flickrの画面をアップロードして、「Flickrぱくり」とタグを付けたのですよ。そしたら、タグ一覧にでっかく出てしまって、あー他にも同じような事を思っている人がいるんだと思ったら。なんと、夜になってみると、タグが改ざんされている!! 写真タイトルと同じ「そっくり」にタグが直されている。信じられない出来事です。

タグ改ざんなんてしてる暇あったら、せめてデザインをオリジナルにしようよ・・・。

ネットと言う言葉が持つさまざまな意味。


ネットと言う言葉をごく当たり前に毎日の日常の中で目に、耳にするようになった昨今。

ネットと言えば、それ即ちインターネットのことを指しているのでしょうが、簡単にネットと言ってもそこに含まれている意味はさまざまなものが含まれています。


現実世界での距離を縮めてコミュニケーションするという手段を提供してくれる手段(道具)としての側面。現実との関係を感じずに新しい交流関係を気づくことの出来るコミュニケーションの場としての側面。

後者だけを見ると、現実世界とは全く別に存在してる新しいネット世界というものが突如出現したかのように思われるかもしれませんが、両方の世界の登場人物は実は重なっており、両方は非常に多くの重なる部分を持っています。

ネットという手段(道具)がより普通に誰にでも意識されずに使われるようになる頃には、ネット世界というものも現実世界の中に取り込まれていくのではないでしょうか。

古くからネット世界に触れ、またその世界での体験を現実世界のモノと同様に考えられると感じている人々は、現実世界もネット世界もお互いが出会うきっかけなり手段なりが違うだけで、実はどちらも同じく他人を相手にコミュニケーションと取る世界なのだという実感が強いんだと思います。

ネット上であっても何らかの自分を表す名前を持ち、その名前で発言する事により、自分のネット上の存在を示さなくてはならないのだと思う。ちょっと大げさに書いているが、ようは、無責任な匿名ではなく、ネット上での自分自身の名前を持つ事で、その名前でもって発言する内容は、その名前に対してかかってくるのだという意識を持つ事が、ネットで「生活する」という事にかかってくるのだと思う。ネットという「ツールを使う」事と、「ネットで生活する」は全く別物だという認識は必要じゃないだろうか。


ネットの持つ「ツール」という側面と、「ネット世界で生活する」という意味の違いの認識ですね。こういう認識というのは言い換えてみれば前者は「会話、電話、手紙などのコミュニケーション手段に新たにネットというものが加わった」ということで、後者は「ネット世界で生活する=ネットを媒介とした他人とのコミュニケーション≒現実を媒介とした他人とのコミュニケーション」ということなんだと思います。


こうした二つの側面の違いを認識できるかどうかというのは、ネットにどれだけ触れているかというのが大きくて、あまりネットに触れる機会の無い年配な人ほど違いが分からず、逆に当たり前のようにネットが存在する中で育った若い人達は、こんな風に意味付けて考えなくても自然とネットというものの存在を感じ、当たり前のように使っていくのでしょう。


ちょっと話は飛びますが、若い人がネット上で協調性のない、自己中心的な行動をとりがちなのは、ネットうんぬんじゃなくて、単に人生経験が少ないことからくる社会性の欠如からなる行動だよなぁ、と思うことが多いです。

そこに必要なルールなりモラルなりというのは、別にネットだけの話じゃなくて現実世界でも当たり前に必要なことが多いですよね。単にネットというツールによってそれが見えやすくなっただけだと。


ネットという新しい手段を手にして、どうしたらそれを有効活用してもっと大きな可能性を引き出せるか、ネットは所詮コミュニケーション手段のひとつ、使い手によって良くも悪くも使えるんだってのを常に心の片隅に忍ばせておきたいですね。