ネットにアップしたものは誰でも見られるという意識


個人情報を売りにせずに魅力的な記事を書く - sugar pot」を読んで。

「個人情報を売りにしている」などと書くと何かと思われるが、ブログの記事を書くということは、多かれ少なかれ自分の情報を読者に伝えていることになる。

突き詰めていくと「どう考えるか」というのは思想信条であるから、それこそ個人情報なのだが、ここでは、「個人がそれと特定できる一般的情報」について書いてみたい。

ここ数日、そういう話題に触れていて、この記事も気になったのでピックアップしてみました。

見えないものは存在しない

人はそういう誤認を犯しがちである。電車の中の真後ろの見知らぬひとの気配には気付くが、ネットの向こうに居る名もなき膨大な数の(かもしれない)読者は、想像しなければ存在し得ない。

そうなんですよね、ネットにアップするというのは膨大な数の不特定多数の人に見られるという可能性があるということなのに、見られるということを想像していない人が多い。

見に来た人はアクセス解析やカウンタが回ることで気づけますが、見ようとしたら誰でもあなたの書いたことを見に来ることができるんだ、という可能性に気づいていない。

そもそも「日常の記録」を「ありのままに」「書くこと」に意義を見出している人も居る(身近な人間だけが面白ければ良い)。そういうひとに「客体視」なんて言ってみても始まらない。だが、「日常の記録」なら、ブログではなく机の上の大学ノートや便箋で良いはずだ。

ブログというツールは、誰でも、オンラインで日記を書ける状況にしてしまった。その結果、広く公に晒される必然性のないものまで、公開されている。

身の回りの人に見てもらえばいい話は、身の回りの人しか見れない場所で。そういうアクセスコントロールの重要性はよく考えます。

SNSの中でアクセスコントロールかけることでそれが可能かなぁとも思いますが、なかなか記事ごとに個別でアクセスコントロールできるようになっているものは存在しませんね。

理想は、自分が所属している集団ごとにSNSがあって、そこで伝えたい、伝えてもよい内容だけをアップするという使い方ができるネット上のコミュニティサービスをどこか始めてくれないかナァと思うんですが、なかなかない。

○○ちゃんのよちよち歩きの写真など、面白いのはごくごく周りの数人で、そのために全世界に公開する必要があるかどうか。「真後ろでそれを覗き込んでいる見知らぬひと」はネットの向こう側にも居るのである。それはやはり想像しておいたほうが良いですよ、と、私はこうしてこれからも繰り返し書いていくだろう。

私も身の回りの人にはそういう話をよくするんですが、なかなか分かってもらえないことが多いです。でも、伝えることはしていきたい。


以前に「お互いのブログを見ないという条件でブログを続けた家族」という内容のネタブログがあって、それがネタとはいえ非常に考えさせられる内容だったんですが、見つからない・・・。見つけたら貼ります。


(追記)
コメント欄にてsugarさんから教えていただき、探していたサイトを見つけることができました。sugarさんの記事中にて紹介されているそのサイトを見てみてください。いろいろと考えさせられることと思います。
【老婆心シリーズ】子どもの写真をブログに掲載している方へ #2 - sugar pot
これは とある かぞくが のこした blog で ある。

「見られることを意識しよう」ってことが伝えたいことで、「だからネットは危ないからブログをやめよう」ってのではないのに注意。sugarさんも触れられていますが。