求めよ、さすれば与えられん


CONCORDE: 楽園を見つけし者、楽園を追われし者」を読んで。


ネット上で自分の安住の地を見つけられるか、なかなか見つけられずにもがき苦しむか。

結局は「※個人差があります。」の一言に尽きるのかなと思うと救われないような気もするし("信心"次第で)救われるような気もするし(苦笑)。

現実的な話で言えば、「※個人差があります」に尽きますね。救われるか、救われないかは、自分が心の中で欲してるものと、自分がネット上で行った活動の結果がどうだったかのバランスでしかありません。

誰かの実感はあくまで誰かの実感、であって。
界隈にはそんな"自分が未だ到達できない境地"をさも一般論のように書いた「希望のことば」があふれていますから、そうじゃない場合も多々あるんだよと、"一般論"とまではいえないんだよと、ただそれを伝えたいだけなんですけどね。

あまりネットに期待をしすぎると肩透かしを食らいますよね。確かにネット上には今までになかった可能性が溢れているけれども、なんでもうまくいくかっていうともちろんそんなことはない。


それでも「希望のことば」を書き続けるのは、どこかにそれを必要としてる人がいるかもしれないから。大勢の人に書いたことを読んでもらえるのは嬉しいけど、それが全員に伝わるべきだとかは思わない、一人でもいいから必要としてる人に伝わってくれればいいかなって。

それでいて
私の場合は、いいタイミングで「信じ続けたから実感を持てるようになった」「実感を持てたから信じるようになった」がループする状態に入れた
という実感が持てる人と、そこにたどり着けずに悶々としている(もしくは諦めた)人と、どちらがどの程度存在するのでしょうか?
その真の数値を知りたいと思う。
私が分布のどのあたりに位置するのかを。

真の数値は知りえませんが、分布のどの辺りにいるかを知りたいってのはあるかも。アクセス解析やランキングサイトに登録してしまうのはそういうことなんでしょうね。

基準を、かつての"ホームページ付設の掲示板(または連絡フォーム)"のことを思えば、(この反応の多さは)楽園に思えるかもしれませんね。
わたしはどうしても(ニフティの)フォーラム(の黄金期)を基準にするから。
なにかを書けば、何らかの反応──しかも一言の相づちや罵倒ではない、文章の体を成している──への期待値というのはものずごく高かった。そりゃ向こうでだってそれ専用の場所に書いた自己紹介を捨て置かれたことはあるけれど、平均して期待値5割は見て良かったと思うし。
そういう「場の持つ力」から放り出されて、"ピン芸人"として(って芸人じゃないけど)ネットに立ち向かっていかねばならない辛さ寂しさ。
それを、私は感じるから。

「(ニフティの)フォーラム(の黄金期)を基準」ってのはハードルが高い!

私もニフティの黄金期にいくつかのフォーラムに出入りしてて、あの当時の熱気を覚えてますが、12年くらいになるネット暦の中であのときのコミュニケーションの密度の高さを超える場所はほとんど思いつきません。

ネット上でのコミュニケーションという新しい活動に気づいた人々が集まって非常に密度の高いやりとりが行われ、本名ではなかったもののアカウントが実名と匿名の中間のように機能していて、現実のしがらみを持ち込むことなく、かつ匿名で誹謗中傷や書き逃げなどを行うこともほとんど目立たない程度だった。ネットの理想状態に近い形があそこにはあったのかもしれません。



その黄金期も長くは続きませんでしたが、「ああいうコミュニケーションを取れる場が存在しうるんだ」ってのは大きな経験になっていて、それからというもの、ネット上のあらゆる場所でそういう場所を探し続けているってのはあります。


こつこつと自分の情報発信を続けられ多くの人の目に止まるってのはブログ、ネット上での新しい遊びはネットゲームや各種Webサービス、少人数とではあるけれど密度の高い話で盛り上がるにはIRCLingrなどを用いた各種チャット、ニフティのときのように熱気を持ちつつネガティブに走らない人たちのコミュニティとしては、twitterはてなが私にとってのそれらに当ります。

ニフティの黄金期に匹敵するものは見つからなかったけれど、部分的にそれを超えた場所はたくさん見つかったので、それを併用することで満たされています。



あのニフティの黄金期を支えていたような人たちは今でも存在してて、そういう場所を探し求めればいつかはたどり着ける。そんな風に思っています。