人は何故増田で過激な意見を書きたがるのか


はてダ・はてブ・増田・2ch・ニコ動のコミュニティ比較
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「はてながつまらないのはお前らのせい。俺は何もしないけど」 - インターネットください
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http://anond.hatelabo.jp/20080914021839 追記

時間順が正しいのかは分からないけど、流れ的にはこういう流れ。


  • ニコ動:基本口だけだけど、凄まじい物が出てくることが多々。
  • 2ch:基本口だけだけど、感想DBとして使うともの凄く機能するし、祭りがあると何か面白い成果物が生まれてくる。
  • 増田:口だけ。後から消せるから2chの数倍タチが悪い。実際昔のホテントリ記事やそのレスを見ると凄まじい量が消されてる事が分かる。
  • はてブ:口だけ。後から改変自由だから(以下増田と同じ) 基本一覧ページ非公開、希望者だけ公開にすればいいのに。
  • はてダ:基本口だけ。後から(ry 技術系の人ではてダ使ってる人も多いから成果物も出てるように見えるけど、言論系の人からは皆無に近い。言論系はオタとか非モテとかに関するオナニーばっかで感想DBとしてもほぼ機能しない。学術系は少しマシだけど、まとめる人がほぼいない、居てもリンク集記事だけでWiki作成まで行かず、これまた中途半端。

全部の項目に「口だけ」が入ってるけど、ネット上、どんな場所にでも「口だけ」な人は存在してる。自分からは何も行動はしない、情報は発信しないけれど、他人のことには口を出す「口だけ」。


後は場の特性的な部分が大きい。


ニコニコ動画は動画というコンテンツありきな場所なので、コンテンツ的な意味の凄まじい物が出やすい。コメントという反応を求めて、コンテンツをここで発表する人が多い。

2chは各板>スレッドという構造で、特定の話題について語る場所。特定の話題について語れる&匿名で人が集まりやすい。参加者が多い故の盛り上がり。短い個別発言が多いため、有志によるwikiでのまとめ作成などが行われる。

増田は匿名で書き込める個別記事の集合。顕名で書けないことを書く人が多いからか過激な書き方でのいわゆる釣りっぽい記事も。さんざん煽っておいて、後で「実はこういうことなんだ」的書き込みをする人が多い。

はてブはブックマークを共有する場所。元記事に対するコメントを残せるがブックマークが主でコメントはおまけ。ここで情報発信や議論を行うのは無謀。

はてダはブログサービスのひとつ。読者層が技術系、ネットをよく見る人に若干偏っているがそれ以外の層も存在している。個人ブログの集合だから、記事は玉石混合。コミュニティ内のやりとりは活発。特定の話題を掘り下げる人が多いので、全体としての分かりやすいまとめはあまり存在しない。


  • ニコ動 : 俺を楽しませる動画がいっぱいアップロードされているので好き。だからクリエイティビティに溢れてる。
  • 2ch : ノイズが多いけど誰かがテンプレやwikiにまとめてくれるから、後で見直すのが楽。人が多いから面白いものも出てくる。だから好きだしクリエイティビティが高い。
  • はてな系 : (自分を含め)誰もwikiにまとめてくれないので見るのが面倒。つまらないし最悪。だからクリエイティビティが低い。
「自分が動かなくても誰かが代わりにやってくれる」のと「俺が望むコンテンツが提供される」ことを「クリエイティビティが高い」と言い換えるのは、これはこれで斬新なのかもしれない。字面を変えると耳障りがよくなる一例。

「俺から見てつまらない」という主観的視点が、「クリエイティビティが低い」というような客観的視点へと変換されてしまうのは、増田でよく見かける内容。


自らは情報発信側に回らずに見てるだけなのだったら、「俺が望むコンテンツが提供される」的意味合いでは、「ニコ動」「2ch」>>「はてな」なのは必然。それは、コンテンツありきな場や特定の話題を語るという場の特性的なものと、単純に参加者数の規模が違うという点による。


一言で言えば、はてなには「頭でっかち」になり易い環境が揃いすぎている。

さまざまな情報溢れるはてなには「頭でっかち」になり易い環境が揃ってるんだろうし、匿名で好き勝手書き散らかせるネット上の多くの場所は「口だけ」になり易い環境が揃ってる。



「頭でっかち」「口だけ」になるか、自ら何かを残したり、発信したりできるかは、当人の心構え次第。環境に文句をつけたところで何も始まらない。

ネット上の多くのサービスは無料で使えるのだから、自ら何かを発信しないというのは極論で言えば「要はやる気がないんでしょ?」というだけのことでしかない。


顕名のブログで「発信」するより匿名で「情報提供」する方が後に続く人に役立つならそうしよう。自己顕示欲は満たされないかもしれない。でも後に続く人により役立つのであれば、その方が価値はあるだろう。そして私の身に残る物もその方が大きいだろう。 それが今の私の考え方だ。

二つ目の増田記事からは、そういう意図が感じられたが、一つ目の増田記事からそれは感じなかった。



というか、この引用のような主張をしたかったはずなのに、何故自らがさんざんこき下ろす「増田」を使うのか、というところが謎。結果として、後に続く人は現れず、ただブーメランが飛び交うだけになってしまったという。