このエントリを書いたのは誰だッ!?

ブログは料理。サイレントマジョリティと海原雄山。 - かみんぐあうとっ
ブログ主は料理人 - タケルンバ卿日記」を読んで。


同じ題材やテーマを元にしながらも、書く人によって全然違うエントリが出来上がってくる、確かにブログのエントリってのは料理人が作る料理みたいな物なのかも知れません。



エントリを書く度に「ドスドスドスドスこのエントリを書いたのは誰だッ!?」的に海原雄山がやって来ても困ってしまいますがw、自分の書いた物に対して何か反応を返してくれる人が現れて欲しいってのはブログを書いている多くの人の思うであろうところ。

アクセス数が多くても、それはそのエントリを開いたってだけのことであって、もしかしたら最初の一行で閉じられてるかもしれない。書いたものは、最後まで読んでもらって反応が欲しい。だから、単なるアクセス以上の意味を持つリアクション(はてブ、はてスタ、コメント、トラバなどなど)は非常に嬉しいもの。



何も美味しいって言ってくれる人だけじゃなくていいんです。エントリのここが違う、とか私はこう思うとか、実はこうなんじゃないか、って反応もありがたい。中にはぶっきらぼうな言葉遣いでハンドアックスが飛んでくることもあるけれど、書かれていることが真っ当なことであるのなら「ああ、この人は口は悪いけれど、間違いを正してくれてるのだな。」と受け入れて、自分の間違いを直すこともできる。

一方で、違うといいつつ根拠を示さない人、独りよがりな演説を垂れ流すだけの人なんかもいて、そういう人には正直「お代はいりませんからお帰りください」と言いたくなる。ああ、ブログなので、別に何のお代も頂いてはいませんが。


惹かれる文章、心を掴んで離さない文章ってあるなぁ……。それは、プロの作家が書いた文章であったり、もしくは一般のブロガーが書いた文章であったり、放たれた言葉には背景があると思うのですよね。

ブログは料理。サイレントマジョリティと海原雄山。 - もっこもこっ

自分の気に入った文章を書いてくれるブロガーを見つけて、そのブログを購読するようになるってのは、お気に入りの漫画や小説の作者を見つけるとか、お気に入りの料理屋を見つけるってのととても似ていて、そのブログに行けば、何かしら自分が気に入る文章を読ませてくれるかもしれない、って期待感を抱かせてくれる。


だからこそ、料理の世界では「誰が作るか」が大事になってくるし、ブログとかの文章の世界では「誰が書くか」が大事になる。その「誰が」の部分が代用の聞かない個性だと思うんだな。題材とか文体とか、そういう細かい部分ではなくて。この世にひとつの作品の創造者になれるか。そこだと思うんだ。

ブログ主は料理人 - (旧姓)タケルンバ卿日記避難所

「ブログ」をタイトルごとゆずる、みたいな話を何度かウェブ上で見掛けたことがあるけれど、あれほど馬鹿げた話はないと思う。それは、ここで言われているようにブログってのは「誰が」書いたかって部分を置き換えてなお成立し続けられるものではないから。「誰か」の部分が変わってしまったブログはもう全くの別物でしかない。



ブログにおけるアクセス数ってのは、一時的な話題の流行(ビッグウェーブ的な何か)だったり、取り上げた話題に興味を持っている人の数に影響を受けてたりするので、単純に数の分だけの反応があったとは捉えられなくて、それよりもそのブログを書いている人、ブロガーを気に入って、その人の書く物を読もうとする意思が見えるRSSリーダーなどの購読者数ってのが、料理屋における常連客の数っぽい数字だなあ、と感じます。



ブログを書くってことは、自分が書いたものを誰かに読んでもらうってことであり、読んでくれる読者をことを意識せずにはいられませんが、かといって100%読者のためだけに何かを書く訳でもありません。まず何を書くか?って題材を選ぶのは、自分の中の興味を持って決めます。それを書くとき、つまり料理人でいうところの題材をどう料理するかって部分において、客を想定しながら、いろいろ料理法を考えながら料理する。

たまには、客のことを考えないで、自己流で料理したりもするけれど、人に読んでもらうものだけに、読んでくれる人のことを考えながら書くってのも、それはそれで面白い。その人向けにアレンジしたのがどう受け止められるとかを楽しむって感じに。



ブログを通じて文章を書くことで、それを読んだ人に何かしら残るような文章が書ければ、その人にとっての究極や至高のエントリが書ければな、と思いつつ、日々ブログを更新し続けてます。