アウトプットする人達は止められない


つまんないのに精力的にアウトプットする人達をどうにかしてほしい」を読んで。

他人が精力的にアウトプットすることに対して、「どうにかしてほしい」というのは傲慢な気がするけれど、「痛々しくてみていられない」という心理だろうか。


アウトプット無しにはそもそも評価されない


何かをアウトプットしている人が全員、そのアウトプットをもって何かを成し遂げる(有名になる、仕事を得る、お金を得るなど)ことを目的としているなら、確かにアウトプット自体が目的になってしまっては本末転倒だし、才能の無い人は目的達成までの道のりは長いんだろうけど、そもそも才能の有る無しって誰が判断するんだろう?


もうちょっと噛み砕いてみると、誰かのアウトプットを評価するのはそれを見た人になるのだけど、そもそもアウトプットなしには評価のしようがないし、誰かにはとてもつまらないものが他の誰かにはとても面白かったり有用だったりなんてことも十分にあり得る。



必ず正解が存在してる試験勉強的なものに関しては、正解・不正解という判断がはっきりと分かるけれども、感性で評価されるものや情報に関してはとにかく大勢の人に見せることによってしか、それがどう評価されるかを判断することはできない。


アウトプットは何のため?


精力的にアウトプットしている人ってのは、そもそもそれで何か成したい、成功したいってだけじゃなくて、アウトプットすること自体が好きなのかもしれない。

それに成功したいという目的を持っていたとしても、目指す所は人に見てもらえればそれでいいというレベルから、何が何でも有名になるんだ!というレベルまで、目指すレベルの高さは人それぞれで、高い場所を目指すのならもちろんただアウトプットするだけじゃなく、見せ方や反応への対処、評価を自分に取り込む姿勢などなど、いろいろと考えるべきことはある。



目的が「自分で何かを生み出すアウトプットから何かを得ること」ではなく、単に「有名になる、仕事を得る、お金を得る」などなのだとしたら、引用元で言及されているような

面白い人を雇う、お世話をする、みたいなポジションやシステムを探求したほうが建設的だと思う

つまんないのに精力的にアウトプットする人達をどうにかしてほしい

という方法論も選択肢のひとつとしてアリで考えてみる価値はある。


しかし、あくまでも「自分で何かを生み出すアウトプットから何かを得ること」が目的なのだとしたら、これはもう道のりは厳しくとも、他人にゴミの山をきずいていると言われようとも、ひたすらアウトプットし続けるしかない。

もちろんその時には、アプトプット自体が目的になってしまっていないか?、本当にそれは誰かが必要としているものなのか?という自問自答は必要。



ネットという場所ができて、アウトプットして人に見てもらうためのコストは大幅に下がり、参加機会は大幅に増えはしたが、自らのアウトプットで何かを得よう、成功しようとするときには今までと同様大勢の人に評価されなくてはならず、機会が増えてよりいっそう増加したアウトプットの山の中でそれを実現することは、やはり大変なことに変わりはない。


必死に上に登ろうともがいている人には「そんなつまらないものを精力的にアウトプットするのやめなよ」というおせっかいは耳に入らないだろうし、そう言ってくる人には見せるべきではなかったアウトプットだったのだと判断しておしまいなんだろう、と思う。