これからのネットの方向性を考える

ひさびさに書くエントリは定番のブログ話で。



そろそろホッテントリもはてブも旬を過ぎた。日本のWEBは残念というより「未発達」なだけじゃね? - 読み人来たらず - Nobody knows Nobody reads -」を読んで。


ブログってのは、コストをほぼ掛けずに大勢の人に自分の書いたものを読んでもらえる場で、ここ5〜10年ほどの間でたいていの人が認識するほどまでに広がってきました。

今までの書籍出版とかテレビ・ラジオ出演、新聞記事などのように淘汰された人々しか発信出来なかった場とは違い、誰でも簡単に何かを発信することができることから、いままでは見る事ができなかった多くの人々の発信する物が読めるようになりましたが、ブログを書く人が増えれば当然多くのエントリが溢れるのは当然のこと。検索エンジンでキーワードでの選別、はてなブックマークのようなソーシャルブックマークによる人気エントリの抽出、気に入ったブログ(作者)をRSSで購読するなど、読み手側がさまざまなフィルタリングで自分の読みたいエントリを探して読む、という形もブログの普及と共に発展してきています。



誰でも簡単にブログを書いて情報発信することができることから、「1億総発信時代が来る」なんて言ってる人もいましたが、おそらくその役割はもう少し細かい断片で発信?いや、たぶん自分の分身をweb上に残す行為だと思います、マイクロブログと言われるtwitterみたいなサービスが担うこととなるでしょう。

この「つぶやき」のような細かい文章の断片が大量に発信されまくり、それが相互影響しあう状態というのは、見方によっては世界中の人々がノードとなった巨大な思考回路的なものなのかもしれません。ここからうまいこと情報を抽出する手法が確立できれば、世界中で起こってる現象をいち早く捉えることができるようになるでしょう。災害や事故、大きなニュースなどでそれが実現しつつあります。



ブログは書籍出版・テレビラジオ出演、新聞記事みたいな形式よりは作者は増えるものの、多くの人に読まれるものはやはり一部で、大多数のブログはそれなりな少数のアクセスを得るのが精一杯という、他のメディアと同様の分布を示すのは間違いありません。

ブログのアクセス数の分布が、ごく一部の大きなアクセスのブログから多くの少ないアクセスのブログまで山の稜線のように続いて行くってのは、何もブログに限った話ではなくて、他のさまざまなメディアも含めてごく当然なこと。誰もがチャレンジできる機会を持っているけれども、成功できる保障はなく、そこは実力相応という。「人に注目される内容を書ける」「人が気になる話題を提供できる」「人を満足させる内容を提供できる」「多くの人の要望・リクエストに答えられる」「量を提供できる」「コツコツと続けられる」などの多くの要素が絡み合って、ブログは人に読まれる存在になっていきます。



日本における参加者数で言えば、twitterはきっと数千万人レベル(これはもう到達してる気も)、ブログはそれなりに更新するもので数百万人レベルくらいかな? 両者の違いの最たるものは、twitterが一度に140文字までしか書けないのに対して、ブログは好きな分量を書く事ができる点で、この分量を書けるというのが高い敷居となって、ブログは書き手を選びます。そう、ある程度まとまった文章を面倒くさがらずに書く人でないと書けない、続かないという。



twitterSNS、ブログなどで無防備に自らの反社会的行動を誇らしげに書いてしまう人々が目立つようになってきましたが、それはある意味、そういう部分に気を配れない、ネットで何かを発信することの意味を想像できない人々までもが日常的にネットで情報発信するツールを使い始めてきたということでもあります。

ネットという場が持つ情報発信・拡散能力はそれこそ瞬時に地球の裏側まで情報が広まってしまうほどのものであり、そこに知られたら不味いことを書くのはダメだということ、これは何も犯罪情報だけじゃなくて、自分や身の回りの人の個人情報だってそうです。

そもそも、犯罪行為を知られたら不味いってのはおかしくて、まず犯罪行為しちゃダメだろってのが基本。今までは人に知られないからこっそりそういうことをしてた人々が、ネットなんかにどんどん自分で悪事をばらしてしまうものだから、バカ発見機なんて言われ方をしたりする。でも、たぶんこの流れはそう簡単に止まらないでしょう。自分の犯罪行為を自慢して、それが炎上して祭り上げられてしまう人ってのは、たいていの場合身の回りの人とのやり取りとしてしかネットを使っていなくて、大勢の炎上してる人達のことは見てないのでしょうから。




作者がより限定されていたメディアと比べると、より多くの作者が存在するブログ、更にはtwitterは、発信者が多い分、より日本という母集団のあり方を表した場になっているはずで、それは旧メディア<ブログ<twitterとカオスさを増していってることからも分かります。

このカオスさがネットの面白さでもあるのですが、逆にカオスすぎて何を見ればいいか分からないからネットは面白くない、という人もいます。この辺は最初に書いた読み手側のフィルタリングの手法がどう発展していくかと密接に絡んでいて、そこは検索エンジンのような膨大な情報にインデックスを付けて順位付けするアルゴリズム的な手法、ソーシャルブックマーカーによるブックマーク、facebookのいいね、Google+の+1、はてなはてなスターtwitterのfavoriteやRTなどによる人と言うエージェントが価値があると判断した情報の共有、など機械的な情報処理だけでなく人の嗜好も活用してすべての情報の価値付け、分類が行われています。

検索というツールの利用、自分の知人や思考が似てる人とSNSなどで繋がることによって、自分が知りたい情報にたどり着けるようになっていくでしょう。




ネットに無防備な人が使うとやけどしかねないってのは、車の運転方法を知らない人が車に乗ると大事故を起こしかねないってのと同じだと思ってて、ネットと言う情報発信の場における運転方法、いや発信方法がきちんと整備・一般化されていけば、より多くの人に使い易い場になるでしょう。

ただ、ネットでの情報発信が車の運転方法と違うのは、教習所や免許に相当するものが無くて、自力で学ぶことができない人はいきなり無茶をして炎上しかねないという部分。これからネットを使うようになる世代は学校における教育でそれを教えるべきだし、すでに大人になっている人は本なり講習なり勉強会なりで学習する形になるのかな。



人々がネットという情報発信・共有手段を利用できるようになってまだ15年ほどしか経っていません。でも、たった15年の間にネットを使って出来る様になったことで大きく世界は変わった。これからもいろんなネットの活用の仕方、新しいサービスが登場し、より多くの人が使う様になり、そこでの基本ルールや心得的な知識が蓄積されて共有されていくでしょう。