ネットで広がった世界と認識させられる現実の呪縛と

ネットの普及によって変わったことと言えば、何かを情報発信することが簡単になったおかげで、かつては見えなかった様々な情報が可視化されるようになり、ネットが無かった頃と比べると格段に多くの情報を知ることができるようになったこと。


世の中の様子やあり方をさまざまな視点から語る人も増え、情報を得るという観点から言えば何処にいてもどういう立場でも、たいして変わらず多くの情報を得られるようになったが、人として現実の世界で生きている以上、何処に居てどういう立場で暮らしてるかによって、得られるモノが大きく違ってくることも知ってしまった。


手に入らないことを知る悲しみ


よりフラットな状態を提供してくれるネットでの情報共有で、世の中に提供される新しいモノのことはいち早く知ることはできるようになったが、できるのは知ることまで。


新しいガジェットはそれが発売される国じゃないと手に入らない。新しいテレビ番組を余さず遅れずに見られるのは都会だけだ。初回限定盤のCDを買ったら中に入っていたこの紙はなんだ、都会に住んでいる一部の人たちだけが応募する意味を持つイベントの申込み券はゴミ箱に捨てればいいのかオークションにでも出せばいいのか。


ネットを乗り越えて向こう側には飛べない


ネットを利用することで、場所や立場を超えてコミュニケーションを取ることが可能になり、それによって身近な人々とより密に繋がることができるようになり、ネットが無かった頃なら知り合うことも無かったような多くの人々と触れ合ったり、現実の交友関係を生み出せることを知った。



ネットでの出会いから現実の交友関係を広げることは充分に可能なことは、かつて幾度と無く参加したオフラインミーティング、いわゆるオフ会から知っているが、現実で人と会うためには当たり前だが同じ場所に同じ時間に存在しなければならない。今だって車を一時間半飛ばし、120km離れた札幌までオフ会のような集まりに行くことも年に数回程度あるが、なぜ札幌まで出かけるかと言えば、ある程度人が集まる、集められる場所ってのは人が多い所だから。


ネットが見せてくれるフラットな世界への希望と現実世界とのギャップ


ネットが変えてくれたのは、情報に関しては何処にいてもフラットに手に入るという環境。情報=データという形式に置き換えても成立する商品やコンテンツは、ネット配信によって、それが何かの媒体を介してしか手に入れられず場所や流通、社会のしくみで入手に制約を化されていた状態から脱することができるようになった。いや、正確にはなりつつある。まだ道半ば。ネットによって、自らの居場所による制約をより意識させられたが故に、ネットに理想の環境を求めてしまいがち。



でも、自分には理想な環境がネット配信にあったとしても、全ての人にそれが理想な訳ではない。現実の世界で形あるモノを提供することに関する仕事をしている人にとってはネット配信なんて黒船以外の何物でもないだろう。


ネットから見える外の世界と自分が今生きているこの場所


いつでも何処にいてもネット越しに世界と繋がれると認識した時から、世界中の何処にいても変わらずに世界と繋がっている感じがしてた。札幌に住んでた時も、東京に住んでた時も、今ここで道南に住んでる時も、旅行や仕事で国内や海外に出かけていた時も。どこに居たってネットを開けば変わらない世界がそこにはあったから。



そういう意味では世界中どこに居ても変わらない感覚がある反面、現実の場所に縛られて仕事をしている身としてはそう簡単に居場所を変えることはできない。もちろん、ここではない場所で仕事を見つけたり、場所に縛られない仕事を得たりすれば別だろうが、いろんな重力が働いてて簡単にここから飛び出すことは出来なさそうだ。



何処に居たってネットを通じて世界と繋がれる感覚があるから、別にここにずっと居たってかまわないけれど、なまじ別の場所で暮らすということも知ってしまったがために、そこで得られていた別の現実が自分を引っ張る。自分が住んだことのあるいくつかの現実の場所の、何処からネットを見ても同じような世界がソコには広がっていたが、現実の場所は全て違う環境だった。ネットを通じて繋がれないもの、手に入らないものは、現実側から繋がりに、手に入れに行かなくてはならない。



ネットがあることで、現実の世界に囚われる息苦しさを軽減できていると同時に、ネットでは飛び越えられない現実の制約もまた感じている。