見るのも語りかけるのも気楽にできるTwitter


コミュニケーションの非対称性をどう受け止めるか? :Heartlogic」を読んで。


Twitter上におけるコミュニケーションの非対称性をどうとらえるかって話。



Twitterを使ってて、非常に楽だなぁと感じるのは、他人を見ている、自分が見られているってのを過度に意識しなくて済むところかな、と思っています。

Twitterでは、誰かの発言を見ようと思ったらそのアカウントをFollowする訳ですが、protectを掛けて許可がないと見られなくしている人を除いて特に承認を得ることもなく自由にその人の発言を見ることができます。逆に、自分が登録される場合でも同じで、誰かが自分の発言を見たいと思ったら、自分に許可を得ることなく自由にFollowすることができます。


だから、他人を見ている、自分が見られているを過度に意識しないで済む。自分のHomeで見ることができるTwitter上を流れているログは街中にいるときにざわめいている街の喧騒みたいなもの。

でも、その中で気になる話題があったら、@返信でその人に直接語りかけることもできます。別にその人と話したことがなくたってかまわない気楽さ。運が良かったら返事が返ってきて、話が続くかもしれません。

でも、ここで必ず返事があるもんだ!とか思っちゃうと、それはそれできついかもしれません。話しかける気楽さはありますが、話しかけられたからと言って必ず返信しなくちゃいけないなんてルールはない。もし、相手の気が向いたら返事が返ってくるかもしれない、くらいに捉えておくと返事がなくても大きくがっかりしないですむかもしれません。



Twitterで挨拶をする人、しない人、いろいろいると思いますが、それも同じこと。誰かが「おはよう!」と挨拶してたら、知ってる人だったら「おはよう!」って言いたくなりますよね。また、知らない人でも、たまたまその場に居合わせたら「おはよう」って返したくなるかもしれません。返したくなったら返せばいい。

返事を返すときだって、たくさん挨拶をもらったら、一個一個返信してたら手間だしログも大量に流してしまうので、まとめて返信でもいいでしょう。むしろ、「おはよう」「おはよう」だから、2度目の返信はなくてもいいくらいかもしれません。

なので、適当に距離を取って、適当に無愛想な人になる、といったところに落ち着きがちだ。
とりあえず、自分が理解できないものに対してもいきなり敵対的な態度を取るのでなく、態度を保留しつつ理解に努め、他者から見て受け入れ余地があるっぽく振る舞う、というのがおおむね正しいんだと思う。

なんていうか、もっと気楽に楽しんでもいいんじゃないかな、と思う。


Twitter上の発言を眺めてて、理解できないものは無理に考えずにスルーしてます。いちいちひとつひとつを真剣に捉えてたらあっというまに疲れちゃう。ざざーっと流し読みして、気になったところを真剣に読むなり、返信してコミュニケーション取るなりするのが楽です。


他者とのコミュニケーション、例えば@返信もらった時とかは、気づいた限りは返信してますが、時間が経っちゃったりしたのはしょうがないかな、とすっぱり諦めてます。これも無理にやろうとは思わない。

1:nだか1:1だかn:nだかよくわからないのが気持ち悪い

Twitter自体はn:nなんだけど、気軽に1:1で話せる手段もある、って感じに受け止めています。まぁ、@返信は1:1と言ってもお互い共通のFollowerには見えているので厳密な1:1ではありませんが、話しかけてる対象としてはお互いってことで1:1と。



実際に多人数が参加しているオフ会なんかだと、知らない人にいきなり話しかけるのはちょっと躊躇したりしますが、Twitter上でならそういう意識をほとんど持たずに気軽に話しかけられる、そんな緩さがいいのかな、と。