投げ銭に込められた意味


投げ銭に関する記事をいろいろ読んでいますが、人それぞれいろんな思いがあるようで。

WEB投げ銭に否定的な方の言動の中に
「自分の文に値段がつけられたようで不快」
「一度ポイントを貰って嬉しくて、次に頑張って書いたとき貰えないと、『どうしてだろう』と悩んでしまうのでは?」
というのを見かけるのですが。そんなバカな。

 たかだか素人がこうやって書いている日記の記事ですゼ?
自分は読者から常に正当な評価を下されているなんてまさかまさか。

 それはハッキリ申し上げて自意識過剰だと思います。幻想ですよ。

正当な値段のワケがない。
本気で正当な値段つけようと思ったらトンでもないことになりますよ。
それこそ”不快”どころじゃ済まない。絶望するのでは?

ちょっと長めに引用してしまいました。


自意識過剰だと思うってのは私も感じますが、評価に対しての考え方については、私はこう思います。


正当な評価ってのは、何を指しているのか。


私は投げ銭に関して

「読者が記事に対して感じた評価に応じて、投げてもいいなぁと思えるポイントを投げ銭として投げればいい。」

と考えています。


記事ごとに評価があって、その評価はもちろん読者ごとに様々なものが存在するのでどれが正当ってのではなく、ただ読者の数だけ記事に対する評価がある。

記事の執筆者が自分の記事に対してつける評価と、各読者がその記事に対してつける評価は必ずしも一致するとは限りません。むしろ、一致しないのが当たり前。


気合入れて書いた記事が評価なかったりしたときは、「自分の考えが一般に受け入れられるものではなかった」、「みんなが分かる形で説明することができていなかった」、「みんなの興味がある話題ではなかった」と思うことにしています。

自分の頑張りと、記事の出来の良し悪しは必ずしも一致するわけでもないですしね。


というわけで、「正当な評価」を考えてみると、

  • 「(万人にとっての)正当な評価」はありえない
  • 「記事の執筆者が思う評価」と「読者がくだす評価」は一致するとは限らない、むしろ一致しない

という訳で、「正当な評価」なんてものはありえないのかな、と。



正当な値段とは


投げ銭として投げられる値段というのは、記事に対する評価を形に変換したものだけど、評価は記事を読んだ読者それぞれで「とても素晴らしい!」と思う人もいれば「まぁ、ちょっといいかな?」程度に思う人もいるわけです。だから、どの値段が正しいって訳じゃなく、読者の数だけいろんな値段が出てくるはずです。

だから、「正当な評価」が存在し得ないように、「正当な値段」ってのも定義し得ないんじゃないかと。



投げ銭を投げる、という行為は、記事に対して何らかのフィードバックを行う行為の中では最上位に位置するものだと思います。

投げ銭>記事に対するコメント、トラックバック>記事をブックマーク>Web拍手などの反応


このときの投げるポイント(値段)というのがいくらであっても、投げ銭を投げるという行為を行うほど感銘を受けた、ということには違いないのです。



現実の社会で売買されているものにはどれも値段がついていますが、その値段が正しいかどうか?というのは、実際に購入してみないと分からず、しかもその値段が高すぎる!安すぎる!と思っても、付けられている値段で買う以外の選択肢はほとんどないのが実情です。

一方、投げ銭で記事を評価する、というのは、自分が感じた評価に応じて納得できる値段を払える、ということで、記事の作者に対して自分の評価をきちんと伝えられる手段となるわけです。

今の投げ銭のシステムは主に記事などが中心になっていますが、これが音楽や作品などにも適用できるようになれば、みんなが良い記事、音楽、作品が良いと思われる評価を正しく受けられるしくみとなり得るわけです。


だから、投げ銭においては、値段という概念をいままでとは違うものとして捉える必要があるんだと思います。作者がつける一律な値段ではなく、読者の評価としての値段という感じに。



投げ銭は「対価」? それとも「投資」?

むしろ、記事そのものというより、それを書いた本人をサポートする感じで投げています。
「良い物見さしてもらいました。できたらまたこういうの書いてください。これ餞別です。」って。
『対価』じゃなくて『投資』なんです。


私は、投げ銭はその記事に対しての「評価」、あくまで自分が感じた「評価(=対価)」でいいんじゃないかと思います。


「対価」として投げ銭を行うことには、それによって執筆者のモチベーションが上がることで、また良い記事を書いてもらえるかもしれない、という期待はあります。

ただ、この期待を自分の心の中で思うのはいいのですが、「期待してますよ!」という形ではっきりと表してしまうと、記事を書く側がその期待に応えなければならないという思いに囚われてしまい、書きたいことが書けなくなってしまうという考えに繋がるんじゃないでしょうか。

そういう思いが強く感じられるから、投げ銭は受け取りたくない(≒自分が書く記事は自分の書きたいように書きたい)というのに繋がってるのかもしれません。




ってわけで、私の投げ銭に対しての受け取る側としての考えをまとめると

  • 投げ銭は過去に書いた記事に対しての評価として受け取る。
  • 自分が書く記事は自分の書きたいように書く。投げ銭がもらえるかどうかは、もちろんその記事の出来次第。

と考えています。





ただ、投げ銭のシステムというのは、「投資」という形で使うことも可能で、それはそれで新しい可能性があるんじゃないかと考えています。その場合には、「投げ銭」じゃなくて、なんか別の名称を考えて区別した方が分かりやすいのかなぁ?と漠然と思っています。