ネット上での質問・回答に関する文化圏の違い


mixiの[ググれ]コミュニティでの「ググれと一蹴するのは横暴な気がするのですが」トピックで、「質問に対する答えで「ググれ」というのは横暴だと思うがどうか?」という問いかけに対してのやり取りが行われています。


それは昔からネット上でよくある質問する人と、答えてもらう人とのコミュニケーションの問題で、それを「ググれ文化圏」と「教えて文化圏」になぞらえて考えているブログを見つけました。

妄想科學日報 - ググれ文化圏と教えて文化圏


文化圏の違い、と考えるとこの問題はかなり分かりやすくなる気がします。という訳で図を作成してみました。

よくある主張の位置を図に入れてあります。


問題は、それぞれの主張を行っている人々が何をしたい(得たい)のかがズレていること。

  • ググれ文化圏の人々は合理的な世の中を望み、皆がうまく共存できる方法(合理的)を考えるし、そうなるように人に説く
  • 教えて文化圏の人々は感情的に世の中を生き、合理性より感情を重んじ、そうせよと人に説く

つまり、まったく違うものを求めているから、そもそも話がかみ合わないという。

質問に答えてもらうということ

質問に対して回答をもらうというのは、言い換えれば「回答者が質問者に回答を与える」という行為。質問者が回答をもらうのことの対価として、回答者は何を得られるのでしょう?

「ありがとう」の一言でいいという人もいるだろうし、後続の人にそれを教えてやってくれという人もいる。

回答をモノとしてやりとりを考えるのならば、回答者から質問者へと何らかのモノを与える、そうたとえばはてな人力検索のようにポイント等でモノとしてやりとりをするというのも、アリだと思います。

対価をやりとりしない、一般のネット上の質問・回答の場合、回答者が質問に答えているのはまったくのボランティア的行為であり、回答している時点ですでに親切なのではないでしょうか。「ググれ」の一言だって、回答を示している訳で。(単なる煽り目的の場合は除く)


「嫌なりゃスルーすればいいじゃん」という意見がありますが、ググれ文化圏の人が「ググれ」の一言を返す場合の真意として、本来、質問・回答という有益な情報を蓄積するはずの場所が、レベル不相応であったり、情報の蓄積にも値しないような質問で埋められることに対する嫌悪感の主張というのがあると思います。「ググれ」と言うことで「ここから出て行け」的な空気を感じるというのと、「嫌なりゃスルーすればいいじゃん」ってのは、お互い自分の文化圏を主張してるにすぎない気がします。

ググれ派の物言いには確かに刺が含まれることがあるだろう。それは多分に「教えて君が決して成長しない」という経験則に基づく苛立ちに起因するものだ。だから彼らは学習の意志を見せぬものに厳しく当たるが、意志のあるものには導き手となり、適切にヒントを呉れる筈だ。

彼らの言動に突き放されたと感じるのであれば、それはあなたがまだその階層に立つには早過ぎたからだろう。もっと下の世界で己を磨いてから再び挑まねばならない。

この主張をぜひ教えて文化圏の人に読んで欲しい。

ググれ文化圏の人は合理性を重んじるが、だからと言って感情をまったく無視する人だけではない。これは答えるという行為自体が親切な行為であることであるから。

また、質問する人の態度(学習意志というと分かりやすい)を重要視していて、学習しようという意志が見えない人には厳しくあたる人が多いです。それは、ただ自分の必要とする情報さえもらえればよい的な自己中心的な思想への反感、webの世界はお互いに情報を持ち寄ることで成り立っている共存の世界なんだ、ということを身をもって知っているから。

もちろん、親切にコミュニケーションを試みれば、両文化圏の衝突は少ないはずなのだが、教えて文化圏の人が合理性を重要視しない、または無視するのと同様にググれ文化圏の人は感情論を重要視しない人が多いのです。



んで、結論。

ググれ文化圏の人は不親切にすることで生まれることがないことを考える(「ググれ」と突き放すことの無意味さ)。教えて文化圏の人はwebはみんなのものであなたの質問・回答を他の人が参考にすることもあるんだ、ってことを意識すること。

つまり、上図の右上にみんなで向かえるように、歩み寄ろうってことです。








以下はおまけ。

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最後に長くなりますが、大元のmixi「ググれ」コミュニティ、「ググれと一蹴するのは横暴な気がするのですが」スレの1の質問への返答。

よく『教えてください』単発トピなんかが立ったりすると、
mixiに限らず2chやその他のBBSなどでも)
『ググれ』とだけレスする人がいますよね(あるいはそれに類するレス)。

確かに『そんなことぐらい自分で調べりゃすぐ分かるだろ』
みたいな質問も多くあります。
しかし、『ググれ』と一蹴するのはいかがなのかと思います。



1.
教えて君をウザイと感じ、質問に答えたくないなら、スルーすればいいだけでは? 
質問に答えてもいいよ、という人がいれば答えるでしょうし、
(中には『教えたい』人だっていますよね。)
みんながウザイと思って放置してれば、進行無しです。
彼はそのうち違うBBSにいくかもしれませんし、
自分で調べるかもしれません。

そういう質問を出されるのが不快だ、という意思表示を「ググれ」という表現で表している人もいる、ということなんだと思います。

2.
『ググれ』というレスは、初心者に対してネットマナーを教えるという意味はあると思います。
しかし、『ググれ』というレスは自分にとっては、多少なりとも煽りが入ってるように聞こえます(少なくとも、一つの質問に対して2つ以上の『ググれ』のレスがあるときは2人目は煽りに近いものがありますよね。)
あるいは、調べたけどよく分からなかったのかもしれないですよ?その人を煽ったら、徒に相手を不快にさせるだけになってしまいます。

煽りというか、やっぱり「ググれ」も不快感の表明手段のひとつなのだと思います。
いたずらに「ググれ」を連発するのも、教えてクン的な質問・態度をするのも、人を不快にさせるという意味合いでは変わらないと思います。どっちも不毛。

3.
よく質問するときは詳しく、とありますが、どこまで詳しく書けばいいか分からなかったりすることもあります。
まぁ、スレによってはそのためのテンプレもあったり。
しかし、そのテンプレの内容すら分からないこともあるわけです。そういう人に対しても『調べろ』は酷すぎませんか?

小学生が、『どうして足し算よりも掛け算を先にやるの?』と疑問に持ったとして、それが自分で調べられますか?
自分の持ってるレベルを結構超えたような疑問を持ったときには、自分の力では調べられないコトだってあります。
そういう人に対して易しく説明してあげられる人も必要だとは思いませんか?
もし思うならば、妥当な質問であるという判断基準は誰がどう決めるんですか?

易しく説明してあげられる人がいるといいですが、それが必要だとは思いません。易しく説明することの難しさを考えたら、それを簡単に提供してくれる人なんてのはホント神様みたいな存在です、それこそ。どうしても易しく説明して欲しいのならば、それ相応な対価を払って回答を求められるような場所(ネット外、または人力検索のような場所)で行うべきかと。
自分の力では調べられないような事を質問するのなら、それなりの態度、説明は必須だと思います。教えてもらうんだから。それが足りないと「ググれ」で一蹴されることになるんではないかと。

4.
単発質問や単発トピ禁止の正当性の根拠として、リソースの無駄という意見をよく耳にします。しかしそれならば『ググれ』というレスをいくつもつけることだって、同じくリソースの無駄です(一つの質問に対して一個のレスがあればすむ話)。
また、リソースが『困るほど』不足するのであれば、そのBBSの管理者等が何らかの対策をとるはずです。それなのに、例えばmixiでなんのお咎めも無いということは、全くもってリソースに困ってないと言えます。それなのに、リソース不足を正当性の根拠にするのはずれていると思います。

地球でタバコを吸ってもいいわけです。なぜなら今のところほぼ無尽蔵にリソース(=酸素)があるから(禁煙は健康被害に対してであって酸素不足対策のための禁煙でないことに注意)。
だけど、もし月面基地などができたらその中では完全禁煙になるでしょう。なぜならリソースが超大事であるから。
地球で、酸素がなくなって困るからタバコは禁止、なんて主張してる人を自分は知りませんが・・・(リソースの無駄であることは確かですが、困るほど不足してない)

リソースの無駄もあるし、質問・回答が集まる有益な情報の場を不必要な情報で荒らされたくない、というのもあると思います。

5.
いろんな意見を忙殺しようとしてる気がします。
ネットに限らず、いろんな人がいろんな考え方を持っています。
法律、条令、そのウェブページの規約等で定められてる場合を除いて、『これが正しい』なんて考え方はありません。
それなのに、『明文化されてない条項』について、『ローカルルール』を守れと主張するのはおかしいのでは?
単発で質問されると不愉快に思う人もいるかもしれませんが、
そうでない人もいます。
『ググれ』とレスがついてるのを見るのが不愉快と言う人もいます。

たしかに単発質問なんぞ無いほうがスレは見やすくなります。
『みんな』が快適に使えます。
これはよく、単発質問禁止の正当性の根拠として挙げられています。
ですが、明文化されていないのならば、単発質問による影響をどう考えるかは個々人の気づかいの問題であって、それを押し付けるべきでは無いのでは?
確かに、ウザがられるのは事実です。
そしてその人が、『ウザがられるのが嫌』ならば、
空気読んで今後ウザがられないように努力するわけで。
その人が、自分で調べるということ、を覚えるわけです。

『ウザイから直して、自分達にあわせろ!』とは言いすぎですよね。
というか意見の押し付け以外の何物でもないと思います。
現実では
『ウザイから直して、自分達にあわせろ!』ではなくて
『ウザイからどっか行け!(というか相手にしない)』ってなりますよね。

自分の意見をさも全体の意見であるかのようにすりかえて主張するのはやめよう。ってのでいいですかね?
後は個々の主張の違いだけだと思います。大勢、声が高い人がいる、方の意見が目立つだけで。

6.
−勝手な推論−
ウザイと思うのは、その質問がその人にとって『あまりに簡単』だからだと思うんです。
そんな人に限って、自分の知識の上限ギリギリの質問が出たりすると、ウザイなど思わずに喜んで答える気がするんです。『みろ、俺はこんなことまでしってるんだぞ』って感じで。
この推論は、難しい質問に対して『ググれ』とレスがついてるのはあまり見たことが無いからです。
自分のことを振り返ってみて、この推論をどう思うかも(的外れとか、自分は違うがそういう人もいると思うとか)教えてください。

中にはそういう人もいるでしょうね。ただ、何をもってウザイとするかは人それぞれだと思います。

私が質問系掲示板を見ててウザイと思うのは、

  • 自分の知りたいことを知るのに夢中で周りが見えない人(答えをせかす、必要な説明をしない)
  • 質問・回答と関係のないことで盛り上がること(そういうことをしたいなら他の場所で)
  • 質問者・回答者かかわらず、人を馬鹿にするような態度の人(ネットでコミュニケーションするのにむいていません)

かな。