こちら側とあちら側の見えない壁


ウェブ進化論で言われるこちら側(リアルな世界)とあちら側(ネット上の世界)。


すでにネット上の世界に参加している人にとっては、両者の間にはなんの壁も存在しないのだけども、こちら側にしか参加していない人にとってはあちら側の世界の前には見えない壁が存在しているんだと思う。


今の大人の多くは、こちら側の世界しかなかったところにあちら側の世界が出現したので、それがなんなのだろう?とは気になってはいても参加するまでには至らない、そもそもそんな新しい世界が出現してるなんて考えもしない、そんな人が大半だろう。

でも、今はこちら側とあちら側というふたつの世界が存在しているのは確かであり、両方に身をおいて生きている人々もどんどん増えている。そして、今に生きる子供たちは両方の世界が存在しているのが当たり前として成長していく。そう、彼らにとっては、我々があちら側と称する世界もこちら側、ホームポジションなのだ。

今の子達にとって、ネットはよく分からない物ではなくて、普通に電話等と同じように「そこにある」世界なんだろうと思う。いや、世界じゃなくて、手段でありツールかな。そこは、ツールでありながらコミュニティでもある。mixiなんかは完全にコミュニティだろうな。

昔だと近所の知り合い、親戚くらいの小さな輪から始まって、小学校、中学校、高校と成長していくに従い自分の行動範囲がどんどんと広がっていき、そこで世の中にはいろんな人がいるんだと知り、コミュニケーションの方法を覚えていき、という形だったのが、今は幼い頃からネットという魔法のツールで自分の世界の輪を極限まで広げた状態からスタートできる。ネット上で議論してる両者が小学生と60歳を超えた老人という形も、今後は当たり前になってくる時代。

距離や年齢、身分、肩書きという制約がなくなった世界。

ネットの世界で、同じ趣味や近場に住んでいるといった共通項を持つ人同士が集まって、楽しく騒いだりしてきたけど、そういう事は今の時代、危ない事であり、大きなリスクを伴う物になってしまっているようで、少し寂しい。勿論、これだけトラブルがあると、怖くてしっかり考えて行動しなくてはとも思うけれど。

ネットに参加する人が増えてきて、残念ながらそれを悪用する人々が増えてきた事実。年齢、身分、肩書き、性別なんてものが簡単に詐称できてしまうネットでは悪人が人をだますことも簡単になっていて、ネットに参加するには身を守る知識を持って参加するのが望ましいですよね。

そうすると、現実と同じように「知らない人についていってはいけません」とか「人を見る目を養いましょう」といった事は、ネットの世界でも同じと言えるのだろうな。ネットだからこそ、注意をしましょうじゃなくて、全て自分達の世界として、気をつけつつ交流関係を広げ、楽しい人間関係を築く……今の子達にとって、友達を増やす機会はとても増えているのかもしれない。

結局、気をつけないといけないことは、現実のこちら側の世界でもネット上のあちら側の世界でも変わらないんだというのは言えてます。どちらの世界にいても気をつけないといけないことはいっしょで、いかにそれを子供たちにちゃんと教えてあげられるかが我々大人側の責任なわけで。

きちんと気をつけることを踏まえて利用すれば、ネットの世界には大きな可能性が待っていて、我々の時代とは違った世界が待っていそう。


我々の時代でも自分の趣味などの仲間をネットで見つけることで、そういう世界を知らない人に比べればずっと広い人間関係を作ることができたけど、いかんせん参加していない人の方が圧倒的に多くてまだまだネットの世界の可能性を100%感じることはできなかったのが、これからの時代はどんどん100%へと近づいていく。

もう、私はおっさんの領域なので、今の子供達の気持ちについては、推し量る事ぐらいしか出来ないけれど……あまりにも当たり前のように存在しているネットと、大人達から言われる「ネットは危ない」のズレに違和感があるんじゃないかとか、そこで知り合った人達に特殊なイメージは持たないんじゃないだろうかとか色々想像してみると面白い。

こちら側の世界にしか参加してない人がだんだんと少数派になっていく時代は、おそらく今後15年くらいで一気に加速すると思っています。ネット世代が成人して社会にでてくる、いや、もう成人という年齢の枠組みも関係なくなるかもしれません。子供の頃からネットを通じて社会に参加する子供も増えてきそう。


よく言われるデジタルディバイドによって引き起こされるネットディバイド。ネットの世界に参加しているかどうかでその人の持つ世界の広さが大きく変わってしまう。いままでは隠されていた事実がネットに参加することでどんどんと知ることができるようになってきていて、自分から知ろう、行動しようとする者には無限の可能性が待っている。

そういう時代に生まれたかったなぁとも思うが、そうなる前の混沌としていた黎明期に参加出来た事は、得難い経験が出来たという意味でとても大事な物だったとも思う。これは、今の子供達には出来ない経験なのだから。

私ももうちょっと後ろか、またはこういう世界を作り出すために前の時代に生まれたかった、と思うことがありますが、この時期に参加できたことは我々にしかできない体験だと思っています。

戦争前と戦争後を知ってる祖母祖父の世代。さまざまな高度成長を目の当たりにしてきた両親の世代。高度成長のかげりと新しいネット世界が生まれるのを体験してきた我々の世代。両方をまたいで生きてきた人にしか、その時代、その事象について体験を元にして語ることはできない訳で、自分の体験してきたことを後ろの世代に伝えていく、バトンを渡す役割を果たしたいってのはよく考えます。

それでも……今の子供達が「こちら側」と「あちら側」の区別をする事すらなく、どちらも自分達の活動エリアとして、自由に動き回る事に違和感は無いんだろうかと想像すると、そんな中で活動している今の子供達の「感覚」「感性」といった部分が、スタート時点から私とは違うのだという事に羨ましさをも感じる。私達の世代よりも、「当たり前」に世界は広く、そして近いんだろうな。

我々はパソコン通信みたいなネットの世界の黎明期、参加者がみんな目を輝かせながらその可能性にわくわくしてた時代を体験してますから、それはそれでよしとしましょう(笑)


ネットが熱意のある人々だけのツールだった時代と誰しもがそれを当たり前に使えるようなツールになってしまった時代では、いろいろと状況は変わってきます。


とあるネットゲームで、やる気満々な人が多いβ版の時にはみんな節度を守りお互いが楽しくプレイするためのエネルギーに満ちていて楽しくプレイできていたのが、製品版になって多くの人が参入してくると、とたんに参加者の意識レベルが下がって悪人は増え、ルールを守らずズルをする人がでてきてつまらない世界になってしまう、というのを体験したことがあります。

ネットの世界もいままではβ版のようなもので、コレからが製品版へと移行していくステージだと考えると、如何に参加者の意識レベルを下げずに負の要素を駆逐していけるかでこれからのネット世界がどうなっていくかが大きく変わると思っています。

このエントリの最終部分以外では、ネットのいい可能性の方ばかりに目を向けましたが、その逆にある悪い可能性についてももっと考えていく必要があって、それは黎明期の頃からネットに参加していた我々の、ある種使命みたいなもんなのかなぁと考えています。