ネットの進化に居合わせる我々にできること。


音極道茶室: 全てのWEBエンジニアはいま「産業革命前夜」のイギリスにいる」を読んで。


ウェブ進化論」(ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書))に関する書評は、賛同してるもの、批判してるもの両方をいろんなところに書かれているものを読んでいるけど、この書評は自分が受けた印象にかなり近かった。

GoogleAmazonAPIを弄り倒し、CPANを漁り、prototype.jsをHACKし、TIPS記事なんかをせっせとブクマしている若いエンジニア層というのは基本的にそういう世界が好きで好きでたまらない人々だ。日々の試行錯誤の中で自分の書いたCODEが起こす「小さな奇跡」が楽しくて仕方がない(もちろん全て楽しい事ばかりではないにせよ)。そして、人間というのは「楽しくて」やっているウチは、意味とか理由とか深く考えないものだ。ましてや「歴史上の意味」なんて想像だにしない。しかし視点を変えてみれば、これから起こるであろう人類史上の大変化に直接携わる事の出来る場所に生きている。この日本というIT先進国で。このエキサイティングな運命にもっと感動していい。なんという好運だろう。

私はエンジニア層ではないが、古くからネットに参加している人間として、その変化や可能性を利用する側として楽しみながら生きている。ここ数年のWebの進化は目を見張るほどであり、非常にエキサイティングな時代に立ち会えた幸運に感謝している。

このWebの進化は、さまざまなWebサービスを提供してくれる側がそのシステムを提供することで始まるが、システムだけでは回らない。それにコンテンツを乗せる人が欠かせない。

Googleがプログラムによって全ての情報を分類しようとすることに対して異を唱える人も多いが、例えばGooglepagerankを決めるときに参考にしているWebページ間のリンクは誰が張っているのだろう? もちろんそのWebサイトを作った人が張っており、プログラムで自動的にリンクが生成されているわけではないのだ。人が作ったさまざまなコンテンツという情報をプログラムという公平な判断基準によって分類しようとしているのではないだろうか?

情報間のリンクは人によって作られており、人が考えることをやめてしまえばこのシステムもうまく行かない。人が自分の頭で考え、正しい情報を公開すればするほどうまくいくシステムなのだ。多くの人が考えるのをやめたとき、Googleのようにプログラムで情報を分類しようとする試みも失敗するだろう。


そういう変化の場に居合わせている我々のできることは、自分の頭でモノを考え、情報を公開していくことではないだろうか?

プログラマーであればCODEを書くのもいい。そうでない人々は自分の持っている情報を公開するのもいい。ネットという新しい世界はどうあるべきなのかを議論するのもいい。こんな素晴らしい世界があるんだよ、とまだ知らない人に教えてあげるのもいい。

ネットで誹謗中傷を繰り返したり、自分は安全な場所から人を攻撃するための手段としてネットを使う人もいるだろう。でも、そういう人ばかりになってしまったらどうなるか。考えてみるまでもないだろう。誰もネットを使おうとしなくなるだけだ。


とにかく我々が何か行動したことが、情報としてネット上に残る。ネットという新しい世界を作り上げていくのは、Googleではなくて、我々ひとりひとりのネット上での行動(=情報)なのだから。どんな世界になるかは、我々の行動しだいなのだ。