コンテンツ嗜好において広いストライクゾーンは幸せか?


部屋を掃除していて、本棚に並ぶ漫画を眺めたとき、自分の好きな漫画ってどっかのジャンルに固まっているってことが無くて、雑多に及ぶさまざまなジャンルに渡っているのに気づかされる。

同じく本棚に並べているゲームもさまざまなジャンルのソフトが並んでいて、それぞれのゲームに思い入れはあるものの、特定のジャンルに固まっているってことがない。パズル、RPG、シミュレーション、レース、シューティング、アドベンチャー、アクション、さまざまなジャンルのゲームに手を出している。


iPodに入っている音楽もかなりジャンルばらばら。音楽にはまるパターンってのが、映画、テレビ番組、アニメ、ゲームなどなど、何か気に入ったコンテンツで使われていたものってパターンが多く、一旦はまったアーティストの音楽はしばらくチェックし続けるので、気になるアーティストは増える一方。



人と話してて、自分っていろんなコンテンツを好む敷居が人よりずいぶんと低い、つまりストライクゾーンが広いってことをよく意識する。細かいこだわりが多くて狭いストライクゾーンゆえに、楽しめるコンテンツが少ない状態に比べたら、多くのコンテンツを楽しむことができる広いストライクゾーンってのは、好きになれるコンテンツの多さ的には幸せなのかもしれない。

でも、もうコンテンツが増えすぎて消費の速度が追いつかなくなって久しい今となっては、気になっているコンテンツでも時間がなくて消費することができないというもどかしさも感じる。


積まれて山となり、最後までプレイできなかったゲーム、1話を見て興味を持ったものの、続きをみる時間がなくてそのままなアニメ、予告編や批評を見て気になっているけど、結局映画館に足を運ばす、レンタルでも借りることのなかった映画、読んではみたいもののおそらく読む機会はまず訪れないであろう幾千もの漫画。



たぶん、今消費できていないものを将来的に消費できるようになる時間が取れるようになるとは考えにくい。今触れ合えなかったコンテンツはおそらくこの先も触れられないまま。

ストライクゾーンの広さゆえに、楽しそうなコンテンツはいっぱいあるのに、それを味わいつくすことができないもどかしさ。



コンテンツ嗜好において広いストライクゾーンは幸せなのだろうか?