写真を撮るということを考える

僕はなぜ写真を撮るのだろうか - shi3zの日記」を読んで。


何よりも写真を撮るのが好きだ!と言うほどには入れこんではいないが、自分でカメラという写真を撮る道具を買った20歳の頃から、写真を撮るという行為は自分の趣味の片隅にずっと席が確保されている。


初めてカメラは、今までとは全然違う日常を送る様になった大学生活を後から見返すために写真でも撮っておこうと思って、安い銀塩のコンパクトカメラを1万円ほどで購入した。

撮影する写真は主にスナップ写真で、そのほとんどが周りに居た仲間達を撮影したもの。写真の中に自分が写っていなくても、それを写した瞬間にはそれを撮っている自分がそこにいたという感覚。

サークル活動で北海道中あちこちを旅行してたので、いろんな場所で撮った写真がたくさん残ってる。大学3年の頃に、夏合宿で2週間ほど道北に旅行したときは、36枚撮りフィルムで十数本撮影して、旅行から戻って来てから現像代でひーこら言ってたのを覚えている。安い現像業者に出しても軽く1万円以上かかった現像代と引き換えに受け取った500枚ほどのプリント写真。それを見ると、いまでもあの時のことが思い出せる。


とにかく、ばんばん撮影するのが無性に楽しかった。銀塩カメラ時代の、現像してみるまでどんな写真が撮れていたか分からないくじを引く様な感覚。その当時の写真はスナップ写真中心で、もっと綺麗に写ったら!という欲求はほとんど無かったので、いいカメラが欲しいって感情はほとんど感じていなかった。知り合いが持っていた高性能なカメラをみても、「へー、そんなすごそうなカメラもあるんだ」くらいな感じだった。


そして、時は移って大学5年(M1)の頃。サークル活動に顔をだすこともほとんど無くなって、写真を写す機会もほとんど無くなっていたが、ここでデジタルカメラという新しい装置が生まれて進化していく歴史を目にすることになる。初めて買ったデジカメはカシオのQV-10A。

今の携帯電話についているデジカメなんかと比べても本当におもちゃみたいなしょぼい映像しか写らないという代物だったけれど、デジタルガジェット好き、写真好きな自分からしてみると、ダイヤの原石を見つけたような、そんな衝撃を受けるデジカメだった。



デジタルカメラというのは、一回本体を買ってしまいさえすれば、何枚写真を撮っても現像代がかかることがない。馬鹿みたいになんでもがしがし撮影しまくる自分にとって、ランニングコストが低いってのはとてもありがたかった。

初めてのデジカメQV-10Aを買ってからというもの、ほぼ1年に一回くらいのペースで新しいデジカメを買い続ける状況が続く。

どんなデジタルガジェットでもそうだが、出始めから数年の性能が急上昇していく時期ってのは新しく出る製品の新機能のひとつひとつにワクワクし、驚き、感動するもの。銀塩コンパクトカメラの時代は、とにかく写真を撮ることくらいしか考えてなかったけれど、いろいろ進化していくデジカメを触っているうちに、次第に写真そのものに対する興味も沸く様になった。

ズームや広角といった画角。絞りによって変わるぼけ味。デジカメが苦手とする明暗差の激しい写真。写真は純粋に光の情報をそのまま記録するのかと思いきや、実はメーカーごとにさまざまな色補正を加えていて脳内のイメージと一致するような変換をしてるという事実。各カメラーメーカーそれぞれが持っている独特なカメラの特性。


そうやって写真そのものに興味が沸いていくのと同時に、写真撮影に対するスタンスも昔とは少し変わったのを感じていた。昔はなんでも気にせずにがんがん撮影してたのが、あるとき写真を撮影したくないって瞬間があることに気づいた。正確にいうと、したくないというかできない、という時。

精神的に疲れていたり、悩んでいたりして心の余裕がないときは、写真を写す気になれなかった。ただ写真を撮るというだけのことなのに、心に余裕がないと写したくない、写せないという。

自分の中での撮影って行為は、写真として画像を記録するということ以外に、そのときの心象を脳内に焼き付けておくということもセットで行われていたのかもしれない。だから、写真を見る度に、そのときのことが後から鮮明に思い出せる。

心がいっぱいいっぱいで心象を焼き付ける余裕がないときは、撮影ができなかったってのは、両者が自分にとって切っても切れない関係だったからなのだろう。


写真そのもの自体は、ある場所のある瞬間の様子を画像として記録しているに過ぎない。カメラによって写りこそ変わるが、同じ場所で同じ瞬間に同じ構図で写真を撮れば、同じ写真が写る。

撮影する人が介在していて変わるのは、撮影者の視点。同じ場所に居たとしても、人によって何に注目してるかは全然違うもの。写真を撮影することで、そうした視点という違いが明らかになる。


自分が撮影した写真を見る時は、自分がそれを撮影したときに脳内に記憶した心象と照らし合わせながらそれを見るため、その写真を撮影した当時の様子を思い出すことができる。これは、写真を撮影した本人にのみ可能な現象。

一方、他人が撮影した写真を見る時は、純粋にその写真に写っている情報から得られるイメージ中心にその写真が写された様子を頭の中で想像することになる。自分の中の他のイメージからそれを類推したり、他の思い出を思い出したり。だから、いろんなイメージを多く持ってたり、いろんな経験をたくさん積んでいる人ほど、他人が撮影した写真から多くのものを感じられるかもしれない。



肉眼で、動画として見ている時には脳が処理しきれずスルーしてしまっている情報が、一気にクリアになる(解像度が上がる)のが、とても気持ちいい。

普段、我々が周りを見て認識してる情報ってのは、注目してる部分以外はばっさりカットされていて、案外少ない情報量なのかもしれない。それが、写真という形で高い解像度の情報として確認すると、単にそのとき脳内に記録していた心象と結びつくだけじゃなくて、いろいろな何かを喚起させてくれるのかもしれないな、とこのコメントを見て思った。