投げ銭に対して感じる温度差
投げ銭に関するブログを見てまわって感じたのが、投げ銭に関する温度差が人によってかなりあるということ。
自分の作ったコンテンツが商品みたいに扱われる
やはり
* 今まで商品として意識していなかった自分のテキストが、一方的に商品みたいに扱われる
というのが、ぼんやりした違和感の原因なのかもしれない。
投げ銭をもらうことで自分のテキストが一方的に商品みたいに扱われてしまう、ここをどう感じるかが温度差に繋がっているぽい。
これはあくまで自分が投げ銭を受け取る側に立つときの話ですが。自分が投げ銭を投げる方で否定的な人はほとんどいなかったように思います。そもそも否定的なら投げなきゃいいだけだしね。
私的には、投げ銭もらったとして、それがもっと良いコンテンツ作ろうって原動力にはなるけれども、あくまでもらってめっけもん、くらいの考えで、投げ銭をもらうためのコンテンツを作る、って方向には考えてません。自分で作るコンテンツはあくまで自分が作りたいもの、書きたいもの。
・・・・・・ああ、正のスパイラル回って無いじゃん(笑)
「投げ銭をもらうためのコンテンツを作る、って方向には考えてません。」、ここがちょっと説明不足なんだろうか。
「自分で作るコンテンツはあくまで自分が作りたいもの、書きたいもの。」というポリシーは投げ銭の有無で変わらないんですが、投げ銭があって人に見られてることをより意識するようになると、もっと完成度の高いコンテンツを作ろうという気にはなる・・・・・・こんな感じでしょうか。ニュアンスが微妙で説明難しいですね。
この辺は、逆に投げ銭をもらってしまうと書きたいように書けなくなる、と感じる人がいてもおかしく無い気はします。そういう場合は投げ銭拒否というスタンスをとるのが良さげかと。
http://d.hatena.ne.jp/sugio/19600230
ここにとても素晴らしいデザインの「投げ銭いただかないアイコン」がずらっと揃っています。
この辺の議論は、おそらく以前にも行われたであろう話で、道理でこんな立派なアイコンが既に作られている訳ですね、納得いきました。
無償による素晴らしいコンテンツの否定?
そして、もう一つ大きな点として、「いままででも無償ではあるけれども良いコンテンツは存在していた、それを無かったかのように扱われることへの違和感」ってのをいくつも見かけました。
こうした世界を実現するためには、読者が何らかの方法でコンテンツに対する適切な報酬を支払う仕組みを実現しなければなりません。そうしなければ、誰が生活を賭けて文章を書くでしょうか。
近藤さんの投げ銭についてのエントリのこの部分について、違和感を覚えると書かれている方が。
とりあえずこの文章に対して思ったのは、金銭的見返りを求めずに生活を崩してまで面白いコンテンツを作り出した人なんていくらでもいたはずということ。
過去にどれだけの人が生活賭けて文章書いてたと思ってるんだ。みんな何のために金にもならないブログ活動してると思ってるんだ。
投げ銭みたいなものが無くても、いままで立派なサイトはたくさんあったじゃないか、というのはそのとおりだと思います。
ただ、上の文章の意味してるところは、「無償だからダメ」ってことを言いたいんじゃなく、「適切な報酬を得られる形でネット上にコンテンツを公開できる、というしくみがいままでは無かったけど、あったらすばらしいコンテンツがもっと増えるかもしれないよね?」ってことだと思うんですが。肯定的にとらえすぎ?
投げ銭のようなシステムが普及したとしても、いままでのような無償の奉仕によるコンテンツが淘汰されるわけではないと思うので、その辺はなるようになるんじゃないかぁって思っています。むしろ、いままでの歴史だと投げ銭のようなモノはだいたい普及しないで終わっちゃってますしね。
アフィリエイトのためのアフィリエイト、みたいな儲けることしか考えない、みたいなのは非常に抵抗を感じるんですが、自分が作ったコンテンツが評価されて対価がもらえる、ってのはいままでのアクセス数、コメント、トラックバックなどの評価の手段が増えるってことでアリなんじゃないかと考えています。
ただ、どうしても投げ銭のようにポイント(金銭)のやりとりが絡むと、いろんなしがらみがでてきちゃうんでしょうね。今後、投げ銭がどれくらい普及するのか、いろいろ考えつつ使ってみたいと思います。