ブロガーが表現で気をつけなければならないこと


ブロガーは、表現においてリスクテイクをすべきだ - エコノミー、マーケティング、そして IT」を読んで。

自由には責任が伴うというのは、民主主義の大原則である。冒頭の事例の人気ブロガーは、自身のエントリに起因するラーメン店の損失を担保できるだけの経済的余裕はあるのか?とうぜんないだろう。
 ならば、そういう、特定の経済主体、この場合はラーメン店を酷評するということはすべきではない。ましてや、インターネットおよび blog という伝播性の高いメディアならなおのことだ。

なぜラーメン店の損失を補填しなければならないという論理になるのだろうか?



ブロガーが何かを書くとき、自分で書いたことに責任を持たなければならないというのは確かにそうだと思う。あるラーメン店を酷評したのだったら、酷評して当然なサービスだったり味だったと思ったからこそ、そう書いたのだろう。

このときの責任というのは、そう書いたのは確かに自分の意思だ、という意味においてであり、そう書いたことによって影響を及ぼしたラーメン店に損失補填をしなければならない、という意味じゃない。損失補填しなければならないとしたら、書いた記事が嘘や捏造だったりした場合。


ブロガーがとるリスクというのは、この書いたことの影響が回りまわって自分にも跳ね返ってくるというところにある。いいかげんなことを書いているブロガーは読者に信用されないだろうし、嘘や捏造などで記事を書いていれば、訴えられることもあるかもしれない。

あちこちのラーメン屋を辛口にずばずば切って捨てる、なんて記事を売りにしてるブロガーがいたりしたら、ラーメン屋から入店を拒否されることもあるだろう。酷評されたラーメン屋から恨みをかって嫌がらせをうけるかもしれない。それがブロガーにとってのリスク。




ただ、影響力、伝播性の高いメディアにおいて、酷評すべきでない、というのには同感する。


それは、受けて側の人々が発信されている情報を信じるかどうかというのが、情報の正しさではなく、権威だったり過去の信用という部分に大きく依存するから。これだけ嘘や捏造が暴かれても、人々はいまだにテレビを見続け、影響され続けている(以前に比べれば信用度は大きく下がっているとは思うけれども)。

影響力、伝播性の高いメディアから発信された情報というのは、良い話でも、悪い話でも、その内容がよく検証されることなしに、大きく広がってしまう可能性が高い。


ラーメン屋の話でいえば、あるブロガーの口にはそのラーメン店のラーメンの味は合わなかったかもしれないが、他の人には合うかもしれない。でも、大きな影響力を持ったブロガーの酷評は、そのラーメン屋のラーメンを食べてない人達にまで、ネガティブな印象を植え付ける。


酷評するときは、そういう影響力まで考えなければいけないとしたら、意見を言いにくくなるが、そういうこともあるというのは心に留めておかなければいけないと思う。


私は偶然、「アルファブロガー」と現在呼ばれている人のうちの何人かにお会いする機会を幸運にも得たことがある。彼らが一様に言ったこととして印象に残ったのは、「批判めいたことはエントリに上げない」という点だった。

それは「批判めいたことをエントリに上げること」で、自分へと跳ね返ってくることのリスクを知っている、ということ。


自分の影響力が大きいことを知っているが故に、上述したように批判めいた主張が内容いかんに問わず一人歩きして広がってしまい、それが回りまわって自分に跳ね返ってくる、そういうリスクに気づいてうまく回避しているからこそ、それが多くの読者の信用に繋がっているんだとおもう。