ネットに何を想い、何を書くか


ネット上で何かを書くことの可能性について。

ネットは社会全体を相手にするのだから、ある意見に対する賛否両論は当然だし、誤解も生じるし、ときに批判は激しい。でもそんなこと以上に、嬉しくわくわくすることがある。それは、自分が書いたことが(たとえたった一人であれ)見ず知らずの人の、あるいは身近な意外な人の、心を動かすことだ。そしてそのことが直接わかることである。そんな素晴らしい経験の可能性が、いま誰にも開かれようとしている。

ネットで社会全体、不特定多数の人々を相手にした対話をどうとらえるか。ブログを積極的に利用している人たちは、その素晴らしい経験の可能性に気づき、体験し、そしてそれを続けている。



誰でも読むことができるブログでコメントやトラックバックを開いた状態で何かを書くってことは、不特定多数の大勢の人々に向けて語りかけていると同義です。


私ははてなブックマークをかなりヘビーに利用しているにも関わらず、コメントに関してはあまりつけることがありません。それは、100文字という限られたスペースでは、自分の言いたいことを誤解のないように伝えることがあまりに難しいから。


だから、何か語りたい内容があるブログエントリに関しては、自分のブログであるここで語るようにしています。

もちろん、100文字という文字数制限が無くても、やはり自分で考えていることの全てを限られた文章だけで相手に誤解なく伝えることは無理で、誤解や曲解されることもよくあるし、反対意見や批判を受けることももちろんある。でも、誠実な態度で対話可能性がある相手とだったら、誤解や曲解ならそれを指摘さらに説明することもできるし、自分に無かった考え方を知り、考えを改めたりすることもできる。


対話可能性があるかないかってのは大きな違いで、対話可能性がなくただ自分の思いをぶつけるだけの一方通行な発言はネットという手段を利用して相手に石を投げているようなもの。ネットイナゴしかり、最近はてな内で話題になっている罵倒芸的な発言を繰り返すユーザーしかり、自分の言いたいことは言うけど相手の反論なり対応なりはシャットダウン、という人々は大勢存在します。

ちょっと前に「北の大地から送る物欲日記 - ネガティブコメントやタグはスルーするに限る」というエントリを書いたけど、スルーするに限るってのは、対話をせずに自分の言いたい事を相手にぶつけたいだけな人とは、残念だけれども対話できないんだから、そういう人相手には対話は諦めるしかないっていう意味。

私も梅田さんも、コメント欄もTBもオープンにしている。私はsplogからのTB/commentのみを削除しているが、それ以外のことはしていない。梅田さんも同様だと思われる。そしてそうしているのは、梅田さんや私だけではない。私は「個人攻撃することを恥じ入ることがない人々や集団」が痒く感じることはあっても、痛いと感じた事はみじんもない。「事実上支配」などというのは、「犯罪不安社会」とさほど変わらぬ被害妄想だ。蚊に刺された事をいちいち保健所に届け出たり、ましてや警察に相談するほど私は勤勉でもなければ暇でもない。

私もコメント、トラックバックはスパム関連を削除するのみ。

さすがに「痛いと感じた事はみじんもない」という弾さんほど打たれ強くはないが、「個人攻撃することを恥じ入ることがない人々や集団」に自分のブログを明け渡したりする気はさらさらない。

対話可能性のある人の批判や反対意見なら、真剣に考え対応するし、自ら聞く耳を持たない人々の書き込みは残念ながらこちらとしてもスルーするしかない。

これは、痛い。1000のコメントでentryが炎上するより、一人のTBの方がはるかに痛い。

1000の対話可能性のない人々の書き込みよりも、ひとつの対話可能性がある人のトラックバックの方がずっと重く胸に響く。真剣に向き合うからこそ、痛い。



これはその人の考え方によるところが大きいと思うのだけども、私は世の中に完全に正しいとか、絶対に間違っているとかいうことは無いと思っている。その人の立ち位置や持っている背景、TPOによって、より正しい答えはいくつもある。だから、何かを語るときは一歩引いた視点で全体を捉えたり、いろんな立場で考えて見ることが重要だと思っている。

ネットで不特定多数の大勢の人々との対話可能性を得ることができるようになって、そういうモノの考え方がより大きくなった。だって、自分の頭の中で想像するだけじゃなくて、実際に他の人の視点、立場からの意見を実際にもらって考えることができるようになったのだから。



より大きな可能性に目を向けるか。ただ自分の考えを押し通す快楽に身をゆだねるか。


自分がネットに何を残して、そこから何を得られるかは、自分がネットとどう向き合ってるかによるんだと思う。