「自分の価値観を決めるのは自分」という意識の強さの違いなのかな?


児童小銃 - なぜある種のやり方で価値観の表明を行うのか問題」を読んで。


自分の価値観の表明が、なぜか規範意識を求めていると読まれてしまうことに対しての話。


元記事で触れられているotsuneさんやkanoseさんの考え方は、それぞれ本人がコメントで表明されているのでそれを読んで判断するのが妥当。

だから、そういう人がそういう形で表明しているのを見て、個人的な価値観について語っている(私はこう思う)というよりは、公共的な規範について語っている(それはこうあるべきだ)と解釈するのは別に不自然じゃない。そして遠回しにでも「君がやっている事は悪いことなんだよ」的な事を言われて「禁止」のニュアンスを感じないとしたら、そっちのほうがどうかしている。

Webにおいては、誰でもフラットな立場で発言を行うことができるってのがリアルとは違う大きな利点だと思っています。


そして、個人的な価値観について語っているのが公共的な規範について語っていると解釈するのは別に不自然じゃない、のくだりまでは同意。公共的な規範についての個人的な価値観、ってことだから。

ただ、それに対して「禁止」のニュアンスを受け取ってしまうというのは、読んでいる側の深読みのしすぎに思う。



Webにおいて誰でもフラットな立場で発言を行うことができるのと同じく、発言した人が有名だろうがそうでなかろうがその価値観ってのはフラットに同じ重みに感じます。もちろん、自分の価値観と照らし合わせて、同感できる、反対だ、違う価値観だ、ってのはありますが、フラットな立場の者が語っているそれぞれの価値観という意味では重さはいっしょ。


それをどう捉えるかは、それを読んだ自分の側の問題。いろんな価値観、意見を見て、自分で考えて、納得できるものに同意すればいいし、違う意見や反対意見なのだったらそれを表明すればいい。有名な人が言ってるからって、その価値観や意見に従わなければならないなんてことはない。

有名な人、権威が言ってるからって、それに従わなければならないんだったら、それはリアルではびこっているくだらない権威主義となんら変わらない。そういうくだらない権威付けを打ち破って、自分自身で考えていることそのものでやりとりできるからこそネットは面白いと思うのです。


というか、自分の発言が他人の行動に影響を及ぼすとか、圧力がかかるとか、そういうことがそんなに嫌なんだろうか? あるいは、そうしたいと思っていると他人から思われるのが嫌なんだろうか?

僕は他人の行動に影響を及ぼしたくて、他人の意志決定に圧力をかけたくてブログを書いているのだけど。みんな互いに影響を及ぼし合って考え方や行動を変えたり変えられたりしあうのが面白くてブログやってるんじゃないの?


自分の書いた発言によって、他人が何かを感じて行動に影響を及ぼすのは、私は意図してブログを書いています。でも、私の書いてあることが絶対で、それに従わなければならないとは考えていません。どういう行動をすべきかは、各自が自分で判断して決めること、私が書いたことをその行動を決めるときの1意見として読んでもらえたら幸いってスタンス。

だから、影響を及ぼしたいってのは当ってるけど、圧力をかけたいってのは違う。


まなめさんが書かれている以下の記事の考え方に、私も非常に近い。

要するに、私のこのスタンスは受け手の意識であって、ブログの楽しみ方は人それぞれであり、読み手もそうだとは思っていない。ただし発信者としての私は、影響受けてくれる人がいたらうれしいし、互いに考え合って影響しあえる人がいたら最高な気分になることは確かだ。

この話を見ていて思ったのは、タイトルにしたように「自分の価値観を決めるのは自分」という意識の強さの違いなのかな?ということ。

自分の価値観を決めるのは自分という意識が強い人は、他人とやりとりしてもそれに流されてしまうことはないけれど、その意識が弱い人だと、他人に強く影響されたり、流されてしまったりする。



Web上では、さまざまな人の多くの価値観や意見を目にすることができるけど、それらはあくまで自分が自分の価値観・意見を決めるときの参考として捉えるべきだと思う。自分が決めた価値観・意識を、人のせいにしてはいけない。それは、自分で決めたことなのだから。