積極的に楽しもうとする熱意

ここ最近、10月に入ったくらいから妙にTwitterでFollowされることが多くなってきたように思う。

特にどこかで大きなニュースになったとかは聞かないので、使ってるTwitterユーザーの中で盛り上がっているか、だんだんと評判を見て使う人が増えてきたのか。


今月に入って、いくつかTwitter関連のエントリを書いたが「Twitterの面白さを痛感した日 - 北の大地から送る物欲日記」「Twitterにおけるレベル25 - 北の大地から送る物欲日記」、その度にじわっじわっとFollowされ続けて、今月だけでも100人以上Followingを増やしている。

Twitterの面白さを痛感した日」を書いた10/11に488だったFollowingが10/25の今では601。


そんな感じでFollowerが増えつつあった一昨日くらいに「小野和俊のブログ:精読のTwitterと速読のTwitter」というTwitterに存在する二つの世界の違いを見た、というエントリが出て、ここからまたFollowブームが起こりだした。

みんなが今この時間に何に対して反応して、
どこで感動してどこで怒って、何を目にしているのか。
それはまるで、動き続ける今というこの瞬間を切り取って映す鏡のようなものだった。

このたくさんの人をFollowして始めて分かる感覚、これはFollowingsが数百人規模になって初めて実感できてくる。

私の場合は、Twitterを初めてすぐにこの規模程度まで多くの人をaddしてたので、比較的早くからこの視点に気づけていたが、そんな数百人も一気にFriendsを増やそうなんては思わないのが普通なので、少ないfriendsとの密度の高いコミュニケーション、精読の方しか気づかなかったユーザーが大半なのだったろうとは思う。


精読と速読という二つの世界がある、というこの記事に触発されて、速読用に新しくアカウントを作ってFollowしだした人も結構いるようだ。元々そういう使い方をしてるユーザーもいたのが、一気に広まった感じか。

Twitter用のクライアントの中には、ある程度ユーザーをグルーピングできるものも存在しているようなので(Twitとか?)、そういうのを使ってみるのもいいかもしれない。

ただ、あえて言わせてもらうと、「速読の Twitter」は実は大量に Follow しなくてもできるから、あえて「精読の Twitter」を選んでいた、という部分もある。
 理由は簡単。buzztter というサービスが存在するからだ。自分が「速読の Twitter」を実行しなくても、このサイトを見れば Twitter の動きが大まかにではあるが読める。つまり、「速読の Twitter」を実行する必要は無くなる。

id:buzztterは面白いサービスで、Twitter上で話題になってることがある程度見える。ただ、これは多くの人が同じキーワードを使ったというのがすくい上げられるだけって部分に注意しなくてはならない。全体の発言の中で、注目されている上澄みの部分しか見えないのだ。

わーーーっと大勢が盛り上がってるのを見たり参加したりするのももちろん楽しいのだが、「速読のTwitter」の面白さというのはそれだけではなく、普段触れ合わない人々の何気ない発言、考え、行動の中に、自分が興味を持てる何かを発見できること、だと思う。


Buzztterを見てるだけでは、当然そういう大勢の人々の何気ない発言、考え、行動は見えてこない。


速読用アカウントには Google で検索した文字列とか流していくつもり。ある意味 BOT なので嫌われるアカウントだと思うけど、その旨をプロフィールページに書いておこうと思う。嫌だったら Block するなり Follow しかえさなければいいわけだものね。

Googleで検索した文字列」の羅列には興味がなかったので、Followしなかった。Bot系な発言はそれが有用な情報でないと逆にノイズになりかねないかな、と思う。もちろんTwitterでそれを流すのは個人の自由なのでかまわないのだけれど。


サービスを利用し始める時期による違い


最近のFollowブームは、上で説明したように「速読のTwitter」的な面白さがあることを多くのTwitterユーザーが知って、それを体験したくてみんなFollowしまくってるってのと、これらの盛り上がりを見て「そんなに面白いんだったらやってみよう」と新しくTwitterに参加してくるユーザーがちらほら出てきたってのが合わさっているんだと思う。(Followされた人を見ると、以前からやってた人と、新しく始めた人の両方をみかけるので)


ここで思うのが、どんなWebサービスでも同じなんだけど、サービスを利用し始める時期による違い。



多くの人が今、他のユーザーをFollowしまくっているけれども、それぞれがFollowできる人数には限界がある。あまりにFollowingが増えすぎると、流れが速すぎて見るのが苦痛になっちゃうだろうし、あまりにFollowerが多くなりすぎて言いたいことが言いにくくなってしまうなんてのも。


つまり、今はまだ多くの人はFollowすればFollowし返してくれる状態ですが、これがいつまでも続くって訳じゃないってこと。



私が「Twitterの面白さを痛感した日 - 北の大地から送る物欲日記」で書いたような面白さは、さまざまな濃いユーザーをFollowしてて始めて実感できることなわけですが、そういう人たちをFollowできるタイミングってのは、サービスを早く使い始めてれば早いほどいい。

時間が経ってしまえば、そういう濃いユーザーの許容量がオーバーしてて、見ることはできても語り合うことは出来なくなるかもしれないし、熱狂的なユーザーは別のサービスへと場所を移しているかもしれない。


積極的に楽しもうとする熱意


とあるネットゲームにβ版から参加してて、非常に盛り上がったので製品版も楽しもうと思ったら、製品版になって大勢の一般ユーザーが参加してきた途端にプレーヤー間のマナーが悪くなり、面白さを追及する熱意のような温度ががくっと下がって、一気に萎えてしまった、なんて経験をしたことがあります。

なんでも最初に飛びつくようなユーザーは、それを楽しもう、盛り上げようとして参加するために非常に高い熱意を持っていて、それゆえに盛り上がることが多い。そして、その温度ってのは、後からくるユーザーが増えるにしたがって、どんどん下がっていってしまう。



いつも新しいサービスを探して、我先にと参加する人々ってのは、肌でこういう状態があるってことを認識してるんだと思う。

とにかく盛り上げよう、楽しもうとする熱意を持って参加してる人と、なんか楽しそうだから、自分を楽しませてくれるかもしれないから参加してみようって人との間には果てしない差がある。



ネットを使って、いろんなことができるようになった今、何かを楽しみたいと思ったら、楽しもうとする意欲が大事なのかもしれない。

受身で誰かが楽しませてくれるかも、ってんじゃなくて、自分から盛り上げていこうとする熱意。それがネットを面白くする。