パソコンがいる人、いらない人がくっきり別れている日本

【山田祥平のRe:config.sys】 パソコンは独り占めが当たり前」を読んで。


「パソコンは独り占めが当たり前」ってのには同意なんだけれども、日本の家庭事情的なものなのか、値段的なものなのか、それともパソコンという物に対するイメージ的なものなのか、一人一台って時代は何時までたっても、おそらくはこれからも、来ないですね。


パソコンが一人に一台にならなかった理由を考えてみる

  • 家庭事情的な原因

よく言われる「日本は面積が狭く家屋も狭いのが一般的なので、家の中に一人一台ものパソコンを置くスペースがないから」という理由。

でも、ノートPCとかなら机の上にちょっと広げるくらいで済むんだから、本当に必要なのだったらもっと普及していてもおかしくない。普及しないのは、必要性自体を感じていない=PCを活用していない人が多いから、なのではないだろうか。

  • 値段的な原因

パソコンの値段はなんだかんだと下がる傾向が続いていて、気づけば10万円以下でも十分すぎるマシンが手に入るように。でも、やっぱり必要性を感じなかったら買わないよなあ。



なんかもうこれ以上考えても無駄な気がしてきたけど、そう、パソコンが一人一台にならない最大の理由は「パソコンの必要性を感じていない人が大勢居る」これに尽きるんじゃないんだろうか。


パソコンを必要と感じる人、感じない人


パソコンってのは、あらゆる作業に使える道具なんだけれども、あえてパソコンで無いと難しい作業は何か?という定義をするならば、「何かを創るための道具」なのだと思う。

文章を書く、絵を描く、音楽を創る、動画を編集する、プログラムを作る、などなど、さまざまな創作的知的活動を行うのに必要なのがパソコンという道具。スマホタブレットはかなりPCに近くてさまざまな作業を行えたりするけれども、何かを創るという作業を行うときには、やはりパソコンが一番適している。



パソコンを「何かを創るための道具」だと考えると、何かを創る作業をしない人にとっては必要性の無い道具となる。



ネットで日本人の一部の人がwebサービスを使い込む様子や、イラスト・動画などでクリエイティブな活動をする人々がたくさんいる一方で、それらの活動にほとんど必須と言ってもいいパソコンの普及率は低いままというのは、創作活動をする人々としない人々がくっきり別れている、というのが今の日本人の状況なんじゃないだろうか。