4つ目の格差社会日本で生きること。


狂童日報 - 三つの格差社会」を読んで。


ヨーロッパ、アメリカ、中国と格差社会に三つのタイプがあるという考察。

階級社会が固定化されているヨーロッパ、機会平等の名の下での競争社会になっているアメリカ、格差は国民が皆平等に裕福になっていくための通過点だと思いつつも、次第に先進国に近づいていく中国、と格差社会のタイプのあり方を考察しています。

日本で上の三つのいかなる道をとるにしても決定的な壁にぶち当たるのは、この「低賃金かつ劣悪な環境で働く膨大な労働者」(長いのでここでは「下層労働者」と呼ぶ)が存在しないことである。欧米の移民や中国の出稼ぎ労働者に当たるこの下層労働者が、日本では「派遣」や「フリーター」と呼ばれていることはしばしば指摘されている。

つまり、日本は上述三つのどのタイプにも当てはまらない四つ目の格差社会に突入しつつあります。

しかし欧米や中国の下層労働者との決定的な違いは、(1)欧米中国では出身自体が貧困である場合が多いのに対して、日本では「豊か」だった場合も多いこと、(2)欧米中国では故郷に帰れば「富裕層」であることが多いが、日本ではそういう「富裕層」になる「故郷」はまず存在しないこと、(3)欧米中国では生活スタイル自体が「下層」であることが普通だが、日本では車、パソコン、携帯などの機器を持っている(持たざるを得ない)場合も多いことである。

戦後の高度成長によって、国民総中流社会と呼ばれるまでにある程度平等で、なおかつそれなりに恵まれた中流程度の生活が保障された稀有な存在になったのが日本でした。でも、それはもうずいぶんと過去の話、バブル崩壊、そして長く続いた不景気によって、国民が皆中流程度の生活を維持できるほどの国力は確実になくなりつつあるのが今の日本。

不景気で余裕が無くなった日本社会では、リストラや実力・成果主義が流行り、勝ち組・負け組という言葉が生まれたことからも分かるように急激に格差社会化が進んでいます。しかし、いったんは国民総中流社会と言われる程に潤っており多くの人が中流以上の生活を送っていた国だけに、格差社会になじめない人が多くいるのもある意味当然。初めから低い生活水準なのと、ある程度高い生活水準が下がっていくことでは、良い暮らしを知っているだけに後者の方が同レベルの生活水準でもつらさを感じる人が多そうです。


一方では、インターネットが登場してきたおかげで、今までに比べるとかなりの低コストで何かを学んだり、発信したり、始めたりすることができるようになりました。多くのチャンスを秘めたこのインターネットですが、着実に人々の生活に入り込んでいる割に、国民全般的にその利用が幅広く広まっているわけではないようです。


低コストだけでなく、情報を簡単に発信できるようになったおかげで、いままでは秘匿されていたような様々な情報が多くの人の知るところとなり、社会構造自体が大きく変革を求められていますが、そんなに簡単に人の意識は変えられません。年齢を重ねて多くの知識を積み重ねるほど、それまで自分が培ってきた世界に執着を示し、変化を恐れるようになる人が多いでしょう。



もうリタイアする時期で多くの蓄えを元に優雅に老後を過ごそうとする団塊の世代。(60歳〜)

先行で逃げ切る団塊の世代を見つつ、なんとか自分も逃げ切ろうとあがくであろうその下の世代。(45〜60歳)

社会が大きく変化していく時代を生きつつ、過去の負の遺産をどう背負っていくか、多くの重荷とこれからの時代を作り上げる中心的な年齢な世代。(30〜45歳)

高度成長を知らず、不景気しか知らない世代。若い頃からインターネットという過去には無かった世界と触れ合いつつ育って来ているため、それを利用する能力も上の世代よりははるかに優れており、上の世代を一気に飛び越す者もかなりでてきそうな世代。(15〜30歳)

物心ついたときからインターネットというツールを手にしている世代。(〜15歳)



これからの社会を考えるに、インターネットが出てきたというのは大きな変化のきっかけとなります。インターネットというのは、うまく使うことで自分の可能性や能力を高め、自分のコミュニケーション範囲を広げることのできる、ツールであり、場所であり、世界でもあります。

このインターネットにどれだけ適応し、利用できるかが、これから大きく変化していくであろう社会にどう対応できるかの分かれ目になるような気がします。すでに20〜40台の辺りでは、インターネットを使いこなせる人とそうでない人との間にどんどんと差が広がっていっているようにも見えます。(それ以上上の世代では、なかなかインターネットになじめない人が多いと思われる)

今の自民党政権は「平等な競争」というアメリカ型と「過渡期」という中国型を組み合わせ、「個人の平等な競争で日本国民全体が豊かになる」という(かなり間違った)論理で「格差社会」に対応しようとしている。しかし、これは絶対にうまくいかない。移民や出稼ぎ労働者のような、分厚い下層労働者層が日本には存在しなくなったからである。

「平等な競争」という方向に向かうことは可能かもしれないが(達成できるというわけではないし、向かうというよりは急激にそっちにシフトするという方が正しいかもしれない)、すでに高度成長期を大きく過ぎ、国民の年齢分布、少子化などからも明らかなように次第に(もしかしたら急激に)下降線を描いていくであろう国力を考えると、「個人の平等な競争で日本国民全体が豊かになる」というのはどう考えても有り得ない。

今まで不当に利益を得ていた人々から社会に還元されるものもありそうだが、そういう人たちは自分の資産・既得損益を守るのに全力を尽くすだろう。そこには何の生産性もない。

現実的に考えれば、たまりにたまった過去の負の遺産を、どんどん減っていく国力の中からなんとか返済しつつ、残った少ない資産の中でどんどん格差のついていく社会、というのがこれからの日本の社会状況だろう。


インターネットという大きな可能性は手にしたが、過去から渡されたバトンは限りなく重い。


どれだけ早くそういう状況に気づき、自分の生き方をそれに対応させていけるかが、運命の分かれ目になるような気がする。インターネットは大きな可能性だが、それを有効に使うためには自分から考え動き出さなければならない。