インターネットによって得られているもの
「Lingua furanca. 切り離された気分になる / ☆YAS!☆」を読んで。
「インターネットが無くなるとき」というお題のトラックバック企画。
インターネットが、電気水道ガスなどと同じく生活のインフラとなって久しい今、インターネットが無くなるということは、私にとって周りの世界と断絶されることを意味する。
もちろん、インターネットが無くなったからといって、本当に周り全てから断絶されるわけではない。テレビは壊れてて見れないけれど、新聞や雑誌を買えばニュースは見られるし、実際に会える人とコミュニケーションを取ることもできる。今ではほとんど使っていないものの、携帯電話を使って電話をすることもできる。
インターネットが無かった十数年前では、そんなのが当たり前の日常だった。
でも、今はインターネットがある。インターネットができて何がそれまでと変わったかと考えると、自分がアクセスできる範囲がそれまででは考えられなかったほど拡大したってのがある。
日常生活を送るだけで知り合える人々だけではなく、インターネット上のさまざまなWebサービスを通していろんな人とコミュニケーションを取ることができる。匿名掲示板で知らない誰かと興味があることについて語るのもそうだし、自分が情報発信しているブログを通して、読みに来てくれた人とやりとりするのもそう。見知らぬ誰かと同じ動画を見てコメントで盛り上がったり、日常のたわいものない独り言で繋がったり。
距離、立場を飛び越えてコミュニケーション相手を見つけられるってのは、現実だけではなかなか実現できない。
インターネットは、コミュニケーションの機会だけではなく、その密度も高めてくれる。メールや掲示板へ書き込むことで、同じ時間を共有しなくてもやりとりが可能になり、世界中どこからでもインターネットに繋がれば、テレビ電話で互いの顔や声を確認することもできる。
多人数の知識を共有するWikiのようなシステムもあれば、テキストでリアルタイムに情報をやりとりできるIRCのようなしくみもある。
距離、立場、時間、情報量といった観点で、インターネットはそれを使う人の可能性を飛躍的に高めてくれる。
インターネットが無くなるとき、我々はいままで利用してきたインターネットによって得られている可能性を失う。人との繋がりや、多くの情報の共有などだ。
可能性を失っても生きていくことには支障はないが、多くの可能性を知ってしまった今、インターネットの無い世界は非常に物足りなく思うだろう。
そして、失ったインターネットに変わる何かを探し求めるに違いない。