崩れ行く情報流通の常識


【正論】「ネット」と新聞 東京大学教授・坂村健 新聞界の常識が崩れ去った - MSN産経ニュース」を読んで。

この問題を語ろうとするとき気をつけなければならないのは、この主題が1つの主題ではなくなってしまった、ということだ。それを無視しあくまで一体として情緒的議論をすれば、混乱するだけで建設的な議論にはならない。
 「新聞の未来」はいま、新聞「記者」の未来、新聞「社」の未来、新聞「レイアウト」の未来、新聞「広告」の未来、新聞「紙」の未来、新聞「販売店」の未来、新聞「折り込みチラシ」の未来−−ざっと考えてもこれだけの未来に分裂してしまった。

いままでは何らかの形を取らないと流通させられなかった情報が、ネットが普及したおかげで簡単にほとんどコストをかけずに流通させられるようになって、情報を取り扱うさまざまな分野で今までの常識が通用しなくなってきています。

今までの常識が通用しなくなって、当然これからの未来がどうなるかは考えていかなくてはならないんですが、今までの常識に囚われ続ける人々も多く、あちこちで大きな衝突が生まれています。


新聞、雑誌など、情報が流通しやすい形の分野ほど過去の常識の崩れ方は早く、大きな変化が生まれそうですが、音楽、映像など権利者とユーザーが大きく反発しあっている分野もあって、正に大きな変化の過渡期なんだな、と感じる時期にさしかかっています。

その「自由」を、どう生かし「未来」をデザインするか。それを決めるのは、技術ではなくあくまでも社会だ。おそらく、その制度設計の最大課題となるのは著作権という社会制度の再設計だろう。
 そのとき、社会系の学問の門外漢として私が危惧(きぐ)するのは日本の技術力ではない。「枠のない自由」に挑戦して新しい社会を再構築することに、安定志向のわれわれ日本人は不得意ではないかということだ。
 情報通信技術がらみの分野で日本が世界でイニシアチブを取れない歯がゆさは前から感じていることだ。「新聞」のような伝統的な社会要素すら解体されつつある今、すべての社会分野の再構築で日本が取り残される−−そんなことにならないでほしい。未来を決めるのは技術力ではない。それは社会を変える勇気なのである。

著作権について、日々いろんな議論が繰り広げられ、時代に沿った形に変えていこうという動きもありますが、最近の流れを見ているとユーザーそっちのけで話が進んでいて、失望させられることしきりです。


今日も、私的録音録画小委員会に関するニュースが出ていましたが、約7500件も集まったパブリックコメントはほぼスルーする形で「ダウンロード違法化」の流れがほぼ確定になってしまいました。

著作権とは何なのか、何を守るための権利なのか。


権利者は「クリエイターの権利を守るためだ!」と主張しますが、ユーザー側から見ていると、「既存の流通の形を守るため」にしか見えません。遅々として進まないネット利用、一部の悪意あるユーザーの行動をまともなユーザーにかぶせるユーザー軽視な体質(CCCDなど)。

ユーザー側も「インターネットではなんでもただで入手できる」と技術を悪用する方向でばかり褒め称える人たちが居て、コンテンツに対して対価を払うという基本ルールが守られないことも多い。



技術はもう十分発達した今、次に考えるべきは、どうしたら権利者側とユーザー側が譲り合える部分に歩み寄れるかを考えること。新しい情報流通手段ができてしまった今、いつまでも過去の常識を守り続けるのは不可能で、こうしている今もどんどんと状況は変化しています。

現実的な落としどころがどこになるかは、どんどんウェブ上で発言して考えていくべき問題なのだと思う。