不運と理不尽のサイクル


不運と理不尽に襲われたとき、うまく切り抜ける人と、逃げ切れずに酷い目に会う人の違い - 分裂勘違い君劇場」を読んで。


マッチョとウィンプが生まれてくる素である不運と理不尽の積み重ね。不運はまあ仕方ないとして、理不尽はそれを作り出している人が存在する。多くの不運と理不尽に揉まれた後、理不尽を許容する側になるとマッチョ、いやどうしても許せないというのがウィンプと分かれていくのだろう。

合理的に生きる(マッチョ)か、理想を求める(ウィンプ)かの違い。



合理的に生きるためには、たとえ理不尽な行為でも必要な場合にはそれを行うことを躊躇しなくなる。そうやってマッチョはマッチョとウィンプを生み出す理不尽を供給する側へと回り、ウィンプは理不尽に打たれ続けて、やがて舞台から退場する。

そして、そのような世界で、不運と理不尽に襲われたとき、マッチョになる道を選ぶか、ウィンプになる道を選ぶか、それはあなたの自由だ。
神のいないこの地上では、一切は許されている。
マッチョでもウィンプでも、あなたの好きな方を選ぶといいだろう。

マッチョがマッチョであるためには、合理的な考え方だけではなく、その考え方を実行に移しうるだけの実力もまた必要とされる。マッチョでもウィンプでも好きな方を選ぶ自由はあるが、マッチョを選んだとして、マッチョになりきれるのかどうかはまた別問題だったりする。


マッチョな考え方を選んだものの、実力が伴わなくてウィンプ側へと流されていってしまう人もいるだろうし、実力を持ちつつもウィンプ側の理想を追い求める思想を持って理不尽で回る社会から離れて生きる人もいる。



マッチョ側の人が語るマッチョがウィンプ側の人に批判されるとき、この実力の部分を「誰でもできることだから」と軽く言ってしまうって所に嫌悪感を感じてる人は多いんじゃないだろうか。

マッチョかウィンプかを選択する自由はあるが、思想と実力の両方が伴わないとマッチョにはなれない。



マッチョが社会に残り、ウィンプが退場し続けるうちは不運と理不尽のサイクルは回り続けるのだろう。それが回らなくなるってのは、世の中がウィンプで溢れたときだろうか。