ネットという場の特性をもっと分かってもらう必要性


CONCORDE: 顕在した危険、潜在したままの可能性。」を読んで。

そう考えると予期しないアクセスが(そして反応が)ある日突然やまほど、というのは不幸な事故と考えてもいいのではないでしょうか。
潜在的な危険があるんだけど"普通は"何事も起こらないし、分かってわざと危険なことをしてさえもほとんどの場合"事故"にならない、という、ものすごく曲者の。

だから「事故防止のための何か」を考えないといけないたぐいの話になるんじゃないかと思うんです、ただそれが何かがどうしても出てこないまま書いているわけですけれども。

「事故防止のための何か」ってのは、現状ではシステム的な何かってよりかは、ネット上で何かを書く人の心構えや正しい知識なんだと思います。もしくはそれを啓蒙していく活動とか。


「ある日、予期しないアクセスが突然山ほど」ってのは、山ほど読みたい人がいたんだってことですから、その人の書いたものが多くの人の興味をそそる何かだったってことで、日常的な会話でそれを言うのは問題なくても、あらゆる人に見られる可能性があるネット上でそれを発言するのは意味が違うんだってことに気づかなかったというミスを犯しています。

不幸な事故ってよりかは、いつか起こるべくして起きた事故って感じがします。


ウェブにおいて、書き手と読み手の思いは違う

何とかならないものでしょうか、"そんなに読まれたくないひと"をちくちくつつくアクセスを、"読まれたいひと"に振り向けるような何か(笑)。

ウェブ上で何かを書いている人の「こう読まれたい」という思いと、ウェブを読む人の「これを読みたい」っていう思いは全く別物なので、一致することはないと思います、残念ながら。


書き手側が「俺が書いたものはもっと読まれるべき!」「反対意見を言う奴は読みに来るな!」って思っていても、読み手側が「読むに値しないか興味が惹かれない」「面白い主張してる奴がいるから読もう」となって結果、書き手側の思いが満たされることはない。

書き手側としたら、あまりネットに過度の期待をしちゃだめなんですよ。過度の期待をネットにかけると、自分の期待の重みにつぶれていくか、満たされない期待を回りに当り散らして更に周りからノーをつきつけられたりしますから。



ネットで自分が書いたものを誰かが読んでくれるってのに期待をかけなければ、たった一人誰かが読んでくれただけでも嬉しいし、ほんの些細な出来事でも感動できる。なんか言葉のトリックみたいですが、そういうものなんだと思います。