ネットの使い方の移り変わり


国内ブログの実態調査 - 北の大地から送る物欲日記 - 明日は明日の風が吹く」を読んで。

>学校のクラスに一人、ブログをやってる奴がいるってところ? そう考えたら結構少なく感じますが。  私は多いなぁと感じる。パソ通の頃から、周りにやってる人なんてほとんどいなかったし、未だに身の回りにいないものね。まあ、同じ会社にいたらそれはそれで辛いんだけど(笑)。

あー、我々くらいの年代の感覚だと、学校のクラスの一人は多いって感覚ですけど、下を見てネットが普通に存在してるのが当たり前な世代で考えたら、もっと多くないのかな?って。


同世代の知り合いでは、確かにブログやってるような知り合いってほとんど皆無ですね。相当めずらしい部類。世代ごとにどれくらいの割合でブログをやってる人がいるか?ってのは興味ある部分かも。


情報を公開って言うよりも、思った事をただつらつらと書き連ねているだけで、それを読んで貰える事が嬉しいなというレベル。書く人が増えたって事は、それだけ読む人の母数も増えている筈で、それが読者増に繋がるなら嬉しいんだけどね。

情報を公開って言ってしまうとなんかものものしいけど、思った事をただつらつらと書き連ねてるだけってのもそれを読む人がいる以上は広い意味での情報公開の一種なんじゃないかと。


古くからやってる人で、ネット住人の感覚がある人は、私と似たような感覚があったりしないかな? 発信してるってよりも、ネット上で色々と思う事を書いたりやり取りをしたりする事が普通にあって、その手段がパソ通から個人サイトへ、そしてブログへ変わっただけだという……  勿論、それらの場の変化によって感覚も変わってくるし、人との関わり方も変わるけれど、やっぱりネットに「いる」という感覚があって、だから特に強い気持ちがある訳でもなく、意外と淡々としたまま当たり前のように、息をするように何かを書いてるような、そんな感じなんだよね。

ネットに「いる」って感覚は、もう長い事ネットを使ってる身からするとごく普通に感じる感覚だけど、そんなにネットを使ってない人達にとってはなんとも伝えにくい感覚。



パソコン通信から個人サイト、ブログへって変化はネットを使ってのコミュニケーションって意味では変わりないんだけど、環境としてはいろいろ変わってるんじゃないかと感じます。



パソコン通信は特定できる相手との掲示板みたいな場所でのやりとり。いろいろマニアックな人が多かった。やがて、インターネットも家庭で利用できるようになって、パソコン通信に参加していた人達が次第にインターネットへと移動しだす。


個人サイトはネット上に自分の場所を初めて持てたという感覚。何もかもが手探りな状態からのスタート。公開するコンテンツやサイト間のコミュニケーション方法など、試行錯誤で試しながら少しずつ進む。個人サイトが流行りだした頃(1990年代後半)はまだ検索エンジンの力が弱かったので、アクセスの多くはサイト間リンクから流れてきていた時代。


個人サイトは開設・運営にある程度の知識を必要としたが、そういう手間を省き簡単な手順で公開できるブログの流行。またWeb上に自分の場所を持って知人らと交流するSNSの流行。多くの人がブログやSNSを見たり、書いたりするようになる。



昔からネットを当たり前のように使ってた人達の「息をするように(ネット上に)何かを書く」ってのが、ごくごく当たり前の日常になってきた最近。

新しく始めた人達は、ネットはインフラの一つでしかなく、そこでは「何か発信する」という事への意識が強くなるんだろうか。そうなると、やっぱり強い意志が無いと書き辛くなるのかな。気負わずに、自分が思う事、好きな事について、日々楽しみながら書いていくだけで良いと私は思うんだけどな。

「息をするように何かを書く」のが当たり前になっていくのはもう間違い無さそうなんだけど、そこで「目立ちたい、儲けたい」みたいなことを考えるのなら「何かを発信する」って意識を持つのは大事だと思います。多くの人が認めてくれる何かを発信してるからこそ、そういうリターンが発生するんだから。


もちろん、全員がそういうリターンを期待した使い方にならなくてもよくて、気負わずに好きな事を書いて、普通に日常的なコミュニケーションを楽しむのもありだし、大部分の人達の使い方はそういう使い方になるんだろうな、とも思います。