消費の速度が上がった先にあるもの


www.さとなお.com(さなメモ): ぼくたちは何だかあっという間に消費しちゃうね」を読んで。


世の中に流れる情報量が爆発的に増えて、人々がもう右から左へと流す様に情報を消費していくことしかできなくなった今、確かにほんのちょっと前のことでもずいぶんと昔のことに感じられるようになった。

今や、ネットでの個人による情報発信のメインとなったブログも、次から次へと時系列で情報を発信できるから、どんどん更新される新しい情報に押しのけられて、少し前のこともあっという間に過去となってしまう。



こうして、浴びるように大量の情報に晒されている我々だが、人が認識して処理できる情報量なんてたかが知れている。溢れんばかりの情報を見て、もう何が自分に必要な情報か判断できなくなり、ただ流されるがままになってしまう人、自ら考えることを辞めてしまう人、何か確かな物が欲しくて人との繋がりを求める人、好きな情報だけ集めて引きこもってしまう人、批判はするけど物事そのもの自体を動かそうとはしない人、そんな人達がたくさん出てくるんだろう。



都会を歩けば、至る所で目にする広告、街中に流れて混じりあうさまざまな音楽、アナウンスの濁流に飲み込まれるし、テレビをつければ話している内容がテロップで流れまくり、観客の笑い声や出演者の表情のピクチャーインなどで感情の起伏まで情報化され、CMになれば「Webで○○を検索!」と能動的なアクションまで押し付けられる。過剰なまでの情報の押しつけで、何が自分にとって必要な情報か分からなくなるのも無理は無い。

一方で、自分から能動的に情報を探す人にとっては、ネットというさまざまな情報へのアクセス手段ができたことは素晴らしいことだが、そうやって知りたい情報を探そうと思うと今度は情報が足りていなかったりする。ネットの進化が速すぎて、今まで情報を司って来たさまざまな分野からネットに情報が移動するのが遅れているし、そもそも個人で情報を発信するような人達の数が絶対的に足りていない。



これからの時代、情報に対して受け身でいるか、能動的に自らで探したり発信したりしていくかの差はどんどん開いて行くように思える。

受け身で溢れる情報をただ浴びてばかり居ると、感覚や自分の思考が麻痺していく。自分で感じたり考えたりしなくても、それっぽいものが大量に流れているからいいや・・・と感じたことがある人は少なくないはず。

能動的に自ら情報を探せば、今までは得ることが難しかったり無理だった情報が得られるような時代にはもうなりつつあるし、そこから一歩進んで自分が持つ情報を発信するようになると、回り回って自分の元にまた情報が戻って来たりもする。



次から次へとネット上に登場してくる新しいWebサービスを使って、いろんな人がいろんなコンテンツを作り出し、公開し、共有し、楽しんでいる。かつてはメディアによって作られたものからしか選ぶしかコンテンツを楽しむ選択肢は無かったが、今なら世界中の人達が作ったコンテンツから、自分が楽しい、すごい!と思えるものを探してきて楽しめるようになった。

他人とのコミュニケーションのための共通言語として消費されるコンテンツは、いまでも旧来のメディアによる拡散効果が大きいが、コンテンツそのものを自分の感覚で楽しむという行為においては、プロとアマチュアの差がどんどん希薄になりつつある。音楽や動画、イラストなどの分野は、受け身と能動的な違いがもっともよく現れている分野で、こうした流れは今後もますます加速し、さまざまな分野へと広がっていくだろう。



溢れる情報に流されてしまうか、自分の感性を信じて何かを探したり、作ったり、発信したりするか。これからの情報化社会を生きていく上で重要な選択の分岐点なのかもしれない。