web上では活動すること自体がキュレーションとなる

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「キュレーション」というと、普通は美術館で展覧会を催すときに特定のテーマやメッセージに基づいて作品を選びとり、配置する学芸員の役割として辞書などには載っています。しかし最近ネットでよく聞くようになったキュレーションは、むしろソーシャルメディアやブログによる情報の選別・整理・共有などを指しています。

あなたが情報のキュレーターにならなくてはいけない理由 | Lifehacking.jp

前者の「美術館で展覧会を催すとき」に「学芸員」が特定のテーマやメッセージに基づいて作品を選び取る、という行為は、「美術館で展覧会」という場において「学芸員」が自分の持つ知識・選択眼の能力を生かして選んだ作品を展示することを「キュレーション」としています。

一方、後者のネットにおける例では、ソーシャルメディア、誰かのブログ、何かのWebサービス上での発信などのさまざまな場において、そこに参加している人達が情報を選別・整理・共有することを「キュレーション」としています。


前者におけるキュレーションは「何か秀でた能力を持つ人がテーマに沿った選択をすること」的な意味を感じますが、後者のそれでは参加している人達全ての選別・整理・共有という行為がキュレーションとして定義されているのではないかと感じます。

これは、前者のような現実の場における特定のテーマやメッセージに基づいて作品を選びとって展覧会を開く、という行為は選ばれたごく一部の人にしかできないものですが、後者のソーシャルメディア、ブログ上での選別・整理・共有は参加者全てが誰でも行うことができ、しかもそれが大勢の参加者間のネットワークで影響を及ぼし合いながら広まって行きます。


ここまで聞くと、「ああ、影響力の強いブロガーやメディアの話ね」と思われる人もいるかもしれませんが、むしろここまでツイッターFacebook の影響力が強くなった現在、誰もがキュレーターでなければいけないということを日々感じます。

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だから、「誰もがキュレーターでなければいけない」というよりかは、ソーシャルメディアやブログ、webサービスなどに参加したユーザー達がそこで活動して何らかの選別・整理・共有した情報を発信すること自体がキュレーションであり、「誰もが参加しているだけでキュレータになっている」なのですね。



これは、ネット上では誰もが気軽に情報発信できるという特性があるからこそ。


ひるがえって考えると、他の人とまったく同じ情報しか追っていない、自分の情報フィルターの独自性が低い場合には、どんなにたくさんの情報を追っていても差別化が難しくなります。

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自分が見ている情報をそのままスルーで発信している、という場合でも一応は選択というキュレーションにはなっていますが、どれを選んだかという情報しか付加されていないので弱い。

これが、他の人は持っていない情報源から情報を得ている、とか、大量の情報を見てその中にある関係性を見いだしたりしていれば、その人の出力は大きな価値を持ちます。



そして、忘れてはいけないのは、ネット上で気軽にできるようになったのは選別・整理・共有だけではなく、自分の中から生まれた情報そのもの自体を発信することもできるんだ、ということ。つまり、自らキュレーターであり、また情報発信者にもなれるという。



むしろ、両者を区別せず、自然に情報を取り込んで自分のモノにし、周りに伝えて行くという形を大勢の間で実現しうるネット上では、情報の広まり方、発展のあり方、が現実とは大きくことなっており、一気に大きなムーブメントになったり、コントロールが効かなくなって炎上したり、時間感覚がネット外とはまるで違ったりするのかもしれません。



まずはネット上のソーシャルメディアでもブログでもtwitterでも、とにかく何かを使ってみてキュレーターとして参加してみるところから始まり、自分はそこで何ができるのか?どういう価値を付与できるのか?という所に気を配りながら情報発信していくことで、今まではなし得なかった新たな体験ができるかもしれません。