現実に取り込まれていくインターネットは禁断の果実だったのかもしれない

移りゆく「インターネットの一番の問題点」 - 琥珀色の戯言」を読んで。

ネット上での人付き合いというか、コミュニケーションは、ネットがまだ大多数ではなく一部の人たちの物であった昔には、現実では出来なかった何かを、受けた傷を、ネットに持ち込むことで実現したり、なぐさめあったりなんてことが確かにありました。



ネットという新しい場所でのやりとり、それは環境に縛られがちな現実のそれとは違って、互いに見せたい面だけ見せて、簡単になぐさめあうような、ある意味簡単で承認欲求を満たし易い蜜のようなコミュニケーション。ネットの持つ「繋がり易い」「見せたい部分だけを見せられる」という性質をうまく利用して、現実では満たされない自身の心の支えとする人々が増えました。



それが、次第にネットを利用する人が増え、現実の多くの部分をネットと共有するようなサービスが提供されるようになり、ネット上も現実と同じ様な状況になりつつあります。

そうなると、ネットのもつ性質である「広がりやすい」「一度発信した内容が残る」という部分が、馬鹿発見器と呼ばれるような一般常識で考えて犯罪に相当すると思われる事象が発信されたのを一気に晒し上げるという現象へと結びつくように。現実で満たされない心を満たすために慰め合うことだけでなく、他人を引き摺り落すことで一種の快感を得るのが魅力と受け取る人々もどんどん増えて来ています。



ネットの普及と現実との接続が増えたことにより、ネットと現実はどんどんオーバーラップするようになりました。ネットが普及し始めた頃にあった好意で繋がることの多かった空間が、人が増え、現実との接続も増えた事で現実の殺伐とした部分も反映されるようになり、またその殺伐とした部分の一部は歪んだ正義感で悪いとされる行為、許せないものを過剰なまでに叩きのめしてしまうような行為へと結びついています。



何か悪いことをしている人を見つけたら徹底的に叩くという状況は、自分もまた誰かに叩かれるかもしれない、いつでも誰かに発信している内容を見張られているという状況ともリンクしていて、ネットも次第に息苦しい空間へと変貌しつつあります。

もちろん、ネットには好意的なやりとりで繋がる発展的な面ももちろん健在していますが、良い状態も悪い状態も分け隔てなく拡大させがちなのがネットの性質でもあります。ネットが現実と密接に繋がるようになると、それはもう独立した空間ではなく現実空間がネットで拡張された、という形になってしまうということ。そうなるともう、現実で満足できない人達が夢見た桃源郷ではなくなってしまいます。



良きも悪きも拡大され、行動する人と見てるだけの人の差が果てしなく広がり、機会は均等に与えられているけれども結果は現実よりも大きな差となって現れる、そんなネット空間は参加のしかた如何によっては、とても恐ろしい空間になってしまうでしょう。晒し上げられた人達が辿った道のりのように。

ネットというのは、現実を良い方向にも悪い方向にも拡大させてしまう禁断の果実だったのかもしれません。