やらせやステルスマーケティングが横行するネットの情報を判断する難しさ

食べログの限界はネット直接民主制の限界 - タケルンバ卿日記」を読んで。(via http://homepage1.nifty.com/maname/

ちょっと旬が過ぎちゃった食べログやらせ投稿問題について。



ユーザーからの口コミ情報だから、宣伝的な行為は無いだろうと思って参考にする人が多かった食べログのような口コミ情報サイトで、ある特定の店の評価を上げるためにやらせ行為を行う業者がいたという問題。


正しい評価、なんて幻想は存在しないが、評価の集合は参考にはなる

問題は「Web2.0」やらなんちゃらで、こういう口コミサイトの評価点が、ある種、神聖なものになっていること。大衆の善意は正しい。投稿が数集まることで、より実体にあった評価になると。善意は悪意を駆逐する。食べログの評価点は多くの一般人の評価の結果だから、正しいに違いないと。その正しかるべき評価点を操作するのはけしからんと。

でもね、そんなイメージって偶像に過ぎないわけで。だってさ、いくら5段階で評価するっていったって、その評価基準がバラバラなら、正しい評価になるわけない。

食べログの限界はネット直接民主制の限界 - (旧姓)タケルンバ卿日記避難所

評価基準がバラバラでも、個々の口コミ情報提供者が提供する評価が自らの意思に基づくものであれば大衆の評価集合は分かる。正しいとかはないんですよ、単に評価集合ってだけ。


人によって評価基準なんてバラバラなのが当たり前だから、平均点なんか出しても本当はあまり意味はないです。100人の評価があって、全員評価3な場合と、50人が評価1で50人が評価5な場合、どっちも平均点は3になりますからね。それに、ある店を評価してる人達が厳しい人達で、また別の店を評価してる人達が甘い人達だとすると、点数が大きく変わったり。

でも、全員が評価3を付けるのと、半分が1、半分が5を付けるってことは違う意味を持ってる。そういう分布などはある程度参考になる。それから、評価する人が増えると、その店の評価してる人達の評価基準の分布がいい具合にならされて、総体としてみるといい具合のところに点数が収まるってのもある。



つまり、口コミ情報の集合ってのは、神の視点から見た様な絶対的に正しい評価ではないけれども、数がそれなりに集まれば、なんらかの参考にはなるってこと。

例えばはなまるうどん。チェーン店だから、全国同じ物を出している。だから同じような味なはずだし、同じような評価になるはず。

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ところが、香川と東京、大阪ではこういう違いになるわけで。ほぼ3点前後に収まっている香川。それに比べ、比較的高い点数の店舗もある東京、大阪。

同じうどんでも、環境の違いで点は違うわけよね。

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環境が違うから点が違う、それは口コミ情報が正常に機能していれば別に普通なことだと。地元に美味しいうどんの店が多数あるであろううどん国、香川と、そうではない東京、大阪なんだから。あと、チェーン店でも店によって味が結構違うってのもよくある話なので、同じ地域でも同じチェーン店で評価が違うってのはありうる話。


「不正」の基準はあるが、それを排除する区別が難しい

それに「不正」の基準も微妙で。「ある意図をもって投稿する」ことが不正だと。意図的に5点の投稿を増やすことで、評価点を上げる。あるいは好ましい口コミを増やすことで評判を上げる。これらの行為が「あの店はおいしいから、もっとみんなに行ってもらいたい。5点をつけよう」「もっと評判になって欲しいから、いい口コミを書こう」というのとどう違うのかと。本質的には変わらんよ。意図があって投稿する。その意図が誰にとって好ましいかの差でしょう。

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本来あって欲しい「口コミ」の形からすると、「ある意図をもって投稿する」のある意図ってのが、評価者自らの意思によるものなのか、誰かが利益のためにという意思(今回のやらせ行為で言えば、斡旋業者と店側が自らの利益のために)によるものなのか、と言う部分の差で、後者が「不正」とされる、ただし、口コミ情報だけを見て前者なのか後者なのかを見分けることは難しいってのが問題の根源だと思う。

不正しようがしまいが、一票は一票ってのはその通りで、それを区別して不正を排除するようなしくみを作るのは難しい。


不正を防ぐようなしくみはありうるのか?


例えば、口コミ情報を投稿する参加者を実名とか他のサービスのアカウントなどと紐付けて、架空のアカウントによる口コミ情報操作をできないようにするとかはどうだろう。

実際に存在する人に限定することで、存在しない人を名乗って情報を「不正に」操作することは出来なくなるだろうが、本人の協力の元に「不正な」操作を行われること自体はこの方法では防げない。



ユーザー同士が互いの口コミ評価を見て評価するという方法はどうだろう? 明らかに特定の店ばかりを持ち上げている、というのは確かに見れば分かるのかもしれないが、それが「不正な」操作を意図してのものなのか、本人の好みによるものなのかは、第三者的な視点から判断することはできない。



じゃあ、信用のおける人のみをフォローして評価を参考にする、みたいな形はどうだろう? 「不正な」操作は入り込まないかもしれないが、口コミ情報のメリットである不特定多数の参加者の評価、の多数という部分が失われることになる。この多数ってのは大事な部分で、大勢の評価があるからこそ、特定の極端な評価の意味あいが薄まったり、全体的な評価のばらつきが平均化されたりというのが、多数という前提が失われると同時に失われる。


今回の事件で変わったこと


口コミ情報が大きく評価されるのは、宣伝、マーケティング中心な広報活動がほとんどだった今までの情報提供とは違う、個人の評価という情報がネットの普及で知人間だけでなく、不特定多数の間で広く集めて活用できるようになったから。

そこに宣伝やマーケティングと言う要素が入り込まないからこそ、口コミ情報の価値があったのが、やっぱり宣伝や一部の人の利害関係による評価操作が入り込んでるとなると、口コミ情報の価値はどんどん下がっていく。



口コミ情報の信頼性をどこまで維持できるかというのは、それを提供することで成り立っている情報サービス的には死活問題だが、根本的な解決策が無い以上、今回みたいにあまりにあからさまに情報操作を行った関係者を排除していく、という地道な対応しかできなさそうだ。

一方、ユーザーの側から見ると、利用してるだけで「不正な」操作があるかどうかを気づくことはおそらく出来ない。よほどへまな操作をしない限りは。だから、今回のような報道がなされ事件として取り扱われれば反応はあるだろうが、そうでない限りは今までと大きく変わることもないのではないか。



口コミ情報が不正操作を跳ね返して信頼を取り戻せるのか、取り戻すほど信頼は失われていないのか、今までのような宣伝、マーケティング的な情報が生き残るのか、それとも特定の個人による情報提供が広まっていくのか、きっと微妙な綱引きが今後も続いていく。

実際のところは、ネットにおける口コミ情報はある程度、裏で操作してる人が存在していて、あまりに極端にやると排除されるけれども、ひっそりとやっているのは分からずにこれからも内包された状態で存在し続ける、というあたりなんだろう。良い悪いは別として。



今回の事件で変わったことといえば、全幅の信頼をおけるような情報ってのはそうそう存在するものではなく、どこかに特定の人の意思が入り込むもので、だからそういうこともあるのだ、という意識を持ちながら情報に接しなければならない、というリテラシーを学んだ人が少しでも増えたかもしれない、ということ、かな。