テロと見るか、対話と見るか


ネットでの著作権の移り変わりをどう見てどう行動するか - 北の大地から送る物欲日記」のコメント欄より。


コメント欄で長々と議論するのはあまり好きではないので、別エントリにて。

T 『他に書かれている部分についてはほとんど賛成できるのですが、「今の著作権法に照らし合わせると、まずい面もあるってのは重々分かってはいるが、行動で示さないと変わらないこともある。」という一文には賛成できません。
法律に問題がある場合の「行動」とは違法行為を繰り返し事実化することではなく、法律の制定過程にプレッシャーをかけていくことです。反対署名をし、デモをし、啓蒙活動をすることです。
「自分の正義のためには法律を守らなくても良い」というのは、テロの論理と同じであって、決して民主主義国家では正義ではあり得ません。ただの暴力です。』

おっしゃることはよく分かります。本来取るべき行動が「違法行為を繰り返し事実化することではなく、法律の制定過程にプレッシャーをかけていくことです。反対署名をし、デモをし、啓蒙活動をすること」なのであることは。



でも、著作権を取り巻く状況を見ていると、「完全に正しい手順」にこだわっていられるほど時間的余裕があるのだろうか?という気がしてならないのです。




ブログでこの問題を取り上げることは、私にとって「法律の制定過程にプレッシャーをかけていくことです。反対署名をし、デモをし、啓蒙活動をすること」に相当します。今の著作権が、いかに現状とあっていないかを示し、ブログという場で反対署名、デモ、啓蒙活動を行っています。

著作権分科会、「ダウンロード違法化」などについて16日から意見募集」でも、パブリックコメントを投稿しようと思っています。



「違法行為を繰り返し事実化すること」という部分は、著作権親告罪であるという部分で、権利者側と我々視聴者側との対話の余地が残されている、と考えています。

今の著作権法に照らし合わせると、まずい面もあるってのは重々分かってはいるが、行動で示さないと変わらないこともある。

という部分だけを見ると、テロと同じ論理で暴力である、と言われてしまうのも仕方ないのですが、ここでいう行動というのは暴力にあたるような「著作権者の意向を無視して視聴者側だけの論理でコンテンツを流通させてしまう」ことを指しているのではありません。



ニコニコ動画を見ていると、著作権者がどこまでは許せて、どこからは許せないか、というのが各企業、メーカーごとに異なっているのがよく分かります。

例えば、音楽の場合、まるまる一曲全てアップされるのはダメだけどショートバージョンだったり、BGM的な利用なら黙認する、という形だったり、アニメなら、問答無用で全て削除というメーカーもあれば、黙認という形を取るメーカーもあったり。


どこまでなら権利者側が譲歩できて、どこを越えると譲歩できなくなるのかを対話で探るためには、著作権で許されるぎりぎりの部分に踏み込まないとなりません。それを指して行動と書きました。もちろん、権利者側からそれは許可できないという指摘を受ければそれに従うというのは大前提です。


これをテロ行為と取るか、対話と取るかは、それぞれ見た人の判断だと思います。人によっては、著作権的にまずいのでは、とみなす人もいるであろうことから、あのような書き方になっています。




今、ネット上で起こっているコンテンツ視聴に関する動きは、想像を超えたスピードで動いています。一番まずいのは、著作権者側の意向を完全に無視し、視聴者側による無許可コンテンツ流通が主流となってしまうことで著作権者側の反発を招き、今より厳しい方向へ著作権が変わってしまうこと。


だからこそ、どこまでが互いに譲れる線なのかを探り合う行為は重要なのだと思います。