コンテンツの価値と対価の移り変わり


fladdict.net blog: 「品質」という概念の価値が相対的に下がっている」を読んで。


実際にネットのさまざまなサービスを利用した上での、「品質」に対する考察。

芸術的な映画や音楽会や絵画のようにそれそのものの鑑賞の主目的にとなるコンテンツ、あるいはファッションや車のように社会的階級やセックスアピールとして機能する、自己プレゼンテーション用の装置においては「品質」というものは、今後も機能する。

一方で、カラオケや話題、ネタレベルのコンテンツ、そして社会に露出する必要のない狭いコミュニティ(2chやニコニコがその象徴)上でのコンテンツほど、品質以上に「即時性」、「コンテクストへの非依存性」、「会話の誘発性」、「突っ込まれビリティ」などの価値が上昇していく。結果、コミュニケーションの踏み台にすぎないコンテンツでは、品質の価値が限りなく0に近づいていく。そういう意味で脳内メーカーとかは象徴的だった。場合によっては、今後は「品質」というのが、表層の精緻さからコミュニケーションを誘発させる装置としての完成度という意味へと変貌してくのではないかと思う。

「コミュニケーション性」ってのも「品質」と同じようにコンテンツの価値を評価する上での要素となっていて、最近ネットで広まることが多くなったコンテンツは「品質」が低くても「コミュニケーション性」が高くてトータル的に価値が高まってる、私もそんな風に感じることが多い。

あと、コンテンツ自体の「品質」とは別に「ブランド力」みたいな部分ってのも、「コミュニケーション性」と似たような価値として働いているんじゃないだろうか。自分が感じる「品質」とは別に大勢が認めているからという価値基準での「ブランド力」。他にもあるかもしれないが、こういういろんな面の価値が合計されてそのコンテンツの価値として認められる。



人々の持っているお金や時間は有限なので、多くの人が「コミュニケーション性」に惹かれそれらの価値を高く感じるようになれば、相対的に「品質」や「ブランド力」のような他の判断基準の価値が下がっていく。



どんどんと人々の興味の対象が広く浅くなっていく時代においては、コンテンツとコンテンツの対価というものも、品質の高いコンテンツに高い対価を、というスタイルから個々の対価は低く、でも幅広い多くの対象から対価を得るという形に変わっていく必要があるんじゃないだろうか。


ネットではあらゆるコンテンツが無料で手に入る、と思っている人々がどんどん増えていく状況は非常にまずいように思う。全てのコンテンツが有料になる必要もないが、自分が価値を認めたものに対しては対価を支払える環境がないと、そのコンテンツの価値はどんどんと下がっていくだろう。

価値があるものにはそれなりの対価を支払うってのは、今までは作り手側が決めた値段を支払うのみだったのが、これからは受け手側が感じた価値で値段を決めて支払うなんて流れになるんじゃないかってこと。ネット上ではそういう動きもちらほらと見え始めてきている。


かつてはコンテンツを複製し、独占流通させることで多くの対価を得ていた流通が強い時代から、より価値の高いコンテンツ(品質・ブランド力・コミュニケーション性など)を提供する人の場所へ対価が集まるしくみってのは、非常に自然な流れだと思う。素晴らしいコンテンツはそれを作った人、それを楽しむ人々がいてこそのもの。ネットはコンテンツの作り手とそれを楽しむユーザーの距離を縮め、それを流通させる存在を排除していく。

もちろん、既存の流通で多くの対価を得ていた人たちからの猛烈な抵抗があるんだろうけど、それがどこまで続くのか。激しすぎる抵抗は、逆に流通自体の寿命を早く縮めていくようにも感じる。(ネットでのコンテンツ拡散の抑止→反動での既存流通コンテンツ拒否やネットでのコンテンツ発表への動きの高まり→急速な流通経路の変化)

コンテンツを流通させている人たちが考えるべきは、現実として現れてしまったネットという新たな流通経路を認め、どうやってクリエイターとユーザーを結びつける行為から対価を得られるかを真剣に考えること。



価値の高いモノを作ってる人がそれに見合った対価を得ていけるような社会は、ネットによる流通コストの激減で実現されるのか。10年、20年後にどうなっているか、振り返るそのときに期待したい。