伝えること、考えること


MORI LOG ACADEMY: で、君の意見は?」を読んで。

自分で文章を書いて、それがどう受け止められたのか、というデータを、僕は一般の人の1000倍は持っているだろう。そもそも学生を指導しているときから多かったし、作家になって激増した。特にネットのおかげで、飛躍的にデータ採取が早く、そして広くなった。どう書けば、どう受け取られるのか、ということがだいたいわかってくる。そして、残念だけれど、大まかにいえることは、「どう書いても、読み手の大部分は自分の都合の良い方へ解釈する」ということである。書かれている内容を客観的に捉え、自分のデータとして素直に吸収できる人は少ない。僕はよく「誤解も理解も同値」と言ってきたのだけれど、書いたことがそのまま伝わることなんてほとんどないわけで、書いた者の力量や受け手の力量ももちろんあるけれど、基本的に人間同士のコミュニケーションとはそういうもの、「理解」とは元来不完全なものである、ということ。

ネット上で数多く文章を書いてそれに対する反応を見ていると、この「どう書いても、読み手の大部分は自分の都合の良い方へ解釈する」というのが実感として分かる。それでもなお、自分が伝えたいことを理解してもらおうとして、あの手この手を使って分かり易く説明しようとするものの、努力に対して思ってることを正しく読み取ってもらえることは少ない。

でも、自分から何かを発信せずに自分が考えていることを伝える術はない。「理解」が不完全なものであると気づいても、何かを伝えるには発信し続けるしかない。


ところで、この頃のネットでは引用が多くなったから、自分の意見を語るまえに、どこかから引用をしようとする。自分の意見を持たない者も増えた。「誰某がこんなこと言っているらしいけれど、どうよ?」「ああ、それなら、こんなこと言っていた奴もいるみたいだよ」というリンク先を交換するだけで意見交換をしていない。しかも、原典まで辿らず、伝聞だけの「噂話」に終始する。こういった情報のシェアが、「親切」の一種だという価値観が生まれたように見えるが、たぶん、昔からあったことだろう。

引用とはちょっと違うのだが、かつて大学の研究室で同じ様なことをしている後輩がいた。いろんな先輩やらスタッフやらに質問し、教えてもらった内容を他の人にそのまんま伝えて、それに付いてどう思うかを聞くという。

その後輩は自分で考えることが苦手で、それが故にそのような行動をしていたのだろうが、自分で考えないが、教えてもらった内容を他の人で確認するという、その方法論は後に多くの人が知る所となり(狭い研究室の中だから、ある意味バレるのは当然なのだが・・・)、自分でちゃんと考えろ!調べろ!と大勢に怒られる羽目になっていた。



自分の意見ってのは、いろいろと材料を集めて、それを頭に叩き込み、自分の頭の中でいろいろと考えないとまとまらないものだ。材料を集めるってのは、他人の発信する情報を見る以外にも自分自身の体験や思考なども含まれる。

今はネットで簡単に材料を集められる時代になったので、材料を集めるだけで自分が何かを考えた気になってしまう人も少なくないだろうが、そこはまだ材料集めの段階で、考えるってのはその先の話ってことを忘れちゃいけない。