「何を言ったか」で評価された人が、新たな「誰が言ったか」を担う時代へ

「誰が言ったか」ではなく、「何を言ったか」が問われる時代へ - Chikirinの日記」を読んで。

「誰が言ったか」ではなく、「何を言ったか」が問われる時代へ。



この場合の「誰が言ったか」と言うのは、参照先記事で書かれているような「一流大学卒の学歴」、「一流企業の名刺」、「政府の審議会のメンバーなど、みんながスゴイと言ってくれる肩書き」を背負って発言することで注目される、ということ。

もう一方の「何を言ったか」と言うのは、ネット上の様にさまざまな人がいろんな発言をするという場においては「肩書き」よりも「発言内容」の方が問われる、つまり重視されるということ。



現実の世界においては、人の発言をどう受け取るべきか?というときに、その人の肩書きを見る事でものすごい大雑把に信用、注目に値するかどうかというのを判断することが多く行われてきました。肩書きと書きましたが、テレビで放送されているから、新聞に載っているから、なんてのも肩書きと同様に判断基準となってきました。

これは、肩書きや発信元は価値のあることを発信しているのだ、と盲目的に信じることで、発言内容の中身の価値や正しさの判断を自分で行わなくても良かったということです。



ところが、ネットという新しい場所ができて誰でも気軽に情報発信できるようになると、さまざまな意見・いろんな視点が大量に見えるようになりました。現実世界の様に、限られた一部の人・組織のみが情報発信するのではなく、大勢の肩書きを持たない人々の発言が見えるようになった訳です。

そうなると、いままでの様に肩書きで発言内容を判断することが出来なくなり、「発言内容」自体をしっかり見る必要がでてきます。つまり「何を言ったか」が問われる状態です。



「誰が言ったか」ではなく、「何を言ったか」が問われる時代へ。



これは、我々が情報を得る場所が一部の限られた肩書きの人や発信元(マスメディア)だけでなく、大勢に情報発信の機会が与えられているネットにも広がったことによって、「発言内容の判断を他人任せにする」時代から、「発言内容の判断を自分で行う」時代への移り変わりとも言えます。



かつてはマスメディアや企業・組織など、大きな肩書きが幅を利かせていたのが、これからの時代は著名人、つまりより小さな一個人の評価が目立っていくようになるでしょう。それは、個人の発言内容の評価が直接個人へと蓄積されていく形が加速して行くだろうから。

個人が自由に情報発信することで自分の評価を高めて行くのと対称的に、大きな肩書き(企業や組織やマスメディア、更には国や政府、行政などまで)がその立場を死守せんがために、嘘や虚偽報告、まずい判断などを続けるという事例は枚挙にいとまがありません。大きな肩書きがかつて持っていた力はどんどんと失われつつあります。



発言がその内容をしっかりと問われるのは良い事なのですが、それは一方で見る側もしっかりと考え、調べ、判断するのを要求されるということでもあります。

極論やもっともらしいことを述べている人が多くの注目を集めていたり、自分の信じたい意見しか見ない、信じないというのでは、せっかく肩書きの呪縛から逃れられたのに、また別の呪縛に取り憑かれてしまっています。



かといって、すべてを自分で考え判断し続けるというのも無理な話で、これからの時代は信用のおける考えを提供してくれる人をいかに多く見つけ、自分の道しるべにできるかで、得られる情報の精度がずいぶんと変わってくるようになるのだと思います。



「(大きな肩書きを持つ)誰が言ったか」ではなく、「(個人が)何を言ったか」が問われ、また「誰(個人)が言ったか」が重要になっていく。

信頼のおける正しい情報を提供してくれる人が誰か、というのが、「大きな肩書きを持つ誰か」から「何を言ったかで評価された誰か」へと移り変わって行く時代のまっただ中な2011年、これからもどんどんと世の中の真実が見えてきて、変わって行くのでしょう。