自らの趣味を攻めと守りで分類してみた

趣味は絞らないといけない話 - 蕎麦屋」を読んで。

趣味をつらぬくには、つきつめていくには、絞らなければダメだよね、って話。


攻めの趣味


これって、趣味に限らず仕事とかでも同じなんだろうけど、何かについて極めてやろう、一歩抜きん出た存在になろう、と思ったら、時間や自分の中の熱意の多くを傾けてやらなければならないんですよね。どんどん歳を取って、いろんなことにチャレンジしてきて、失敗したり成功したり、そんな人生を送ってるうちに実感するトコロ。



時間や自分の中の熱意って書きましたけど、それ以外にもいろいろと大事なこともあって、「自分の頭で考える」とか「余計な思い込み、プライドを捨てる」とか。



「自分の頭で考える」ことをしない人って、人の後ろについていくか、モノマネするかにとどまってしまい、どこまで行っても誰かのコピーにしかなれない。

「余計な思い込み、プライド」と「自分ならではなこだわり」、これは自分の視点だけで考えてると案外違いが分からないんですよね。自分の中に他者の視点を持てるか、自分を客観視できるか、ってのと、それらの視点も含めて、自分の目指す何かのために必要なのは何か取捨選択できるか、ってのが「余計な思い込み、プライドを捨てる」の意味。



そんな感じで高みを目指していく、自分と他者とを区別しうる何か、自分のアイデンティティとしての趣味ってのは、攻めの趣味。一番槍を目指すとか、あの山の頂点を目指すとか、敵将を討ち取るとか、そんなイメージ。


守りの趣味


攻めがあるなら守りもあるよね、ってことで守りの趣味って何かって考えてみる。



攻めの趣味とは逆な訳ですから、他人よりも突き抜けようとか、孤高の存在になろうとか、何かを為そうなんて高い志は持たずに緩くノンビリやりたいようにやろうよ、って趣味が守りの趣味でしょうか。

なんかこだわる訳じゃないけどそれをしてるのが好きとか、何も考えずにボーッとそれをするのが好きとか、他者とのコミュニケーションのためにやってるとか。他者より抜きん出なくてもいい、好きなように楽しめればそれでイイという。



守りの趣味って、いったいお前は何を守ってるんだ?って言えば、自分の心の安寧?


自分のリソースと攻守の向き不向き


1日24時間、1ヶ月30日、1年365日、誰にも同じだけ与えられた時間は、どう使うかは自分で選択できるけど、限られているリソース。世の中、生きていくため、何かを行うために必要なお金もリソースの一つ。趣味で何かを始めようって時には、自分の手持ちのリソース、時間やお金の中でやりくりできる範疇でしか、その趣味を行うことはできない。



食に関する趣味で考えてみると、一流料理店や世界の美食を味わう、みたいなグルメは多大なるお金を必要とする。B級グルメとかになるとお金はそれほどかからなくなるが、あちこち出かけたり行列に並んだりと時間を費やすことが増える。料理はどうだろう。趣味で料理をするとなると、調理器具や調味料、食材にこだわるため、お金がかかることが多そうだ。そして手の込んだ調理法ほど時間がかかる。



攻守の向き不向き、その人が趣味をどういう意識で捉えるか、攻めるのか、守るのかってのは、基本、その人の性格による所が大きそうだ。何事にもこだわって他人より秀でないと納得が行かない人、マイペースで自分のやりたいようにやれればいい人、行動的な人、受け身な人、などなど、それぞれ攻め、守りを選ぶ要因となる。


自分の趣味を考えてみる


そんなこんなで趣味についていろいろ書いてみたけど、自分の趣味が攻守どっちの方向なのかを考えてみる。とは言っても、そんな突き抜けた人でもないので、攻めか守りかの方向性くらいなものだけど。

  • 旅行

出かけるのは好きで、数年前には道内の道の駅を全制覇(攻め)した。道の駅を制覇するのはスタンプラリーが目的だけど、昔と違い今は24時間スタンプが自由に押せる訳じゃないので、営業時間内に回れる道の駅をうまくまとめながら制覇していくというのは結構難易度が高いミッションだったりする。北海道全道の駅を制覇するのに走った距離はたぶん5000kmオーバー。一回の旅行でせいぜい2〜4日程度しか使えないので、何度も遠いエリアまで遠征する必要があったため。

お金的な意味合いでここ数年は道内から脱出してない。最近は年に数回、道内遠征する程度(守り)。

  • 食(グルメ)

食べるのは好きで、旅行するときは必ずご当地の美味しい物を食べてこないと気が済まないタチ(攻め)だけど、最近は旅行しなくなったので、近郊のまだ見ぬ美味しいものを探すくらいにとどまってる(弱い攻め)。土地柄、お金的にもB級グルメ中心。

  • 食(料理)

店に行くだけが食じゃない、美味しいものを食べたければ自分で作ればいいじゃない(攻め)的に食べたい物を自分で作るのが好きで、料理は結構する。出かけない週末とか、盆正月GWのような人が増えるときは調理人なことが多い。

  • ネット

ネットの黎明期からずっとネットを使ってて、新しいサービスで拡がる世界を見るのが好き(攻め)。自分の好きなことを語るのは好きだけど、身の回りでそれを語り合う人ってのもなかなかいない環境なので、溢れ出る思考はブログに書いてる(攻め)。

デジタルガジェット系な代物が好きで、特にある分野の商品が出始め、まだ世の中の認知されていない状態から、次第に普及し、急成長していく様を見るのが好き(攻め)。世の中に普及しまくって安定期に入ったデジモノはそれほど熱意を持って追っかけなくなる(守り)。

  • ゲーム

自分の知らない世界、新しい体験を味わうためにプレイするゲーム、それまでに見たことがない新ジャンルが好き(攻め)だけど、ゲーマー歴30年を超えてそういう新しいジャンルってのはそれほど出てこなくなった。ゲームの腕前は長くやってる分、そこそこではあるけど、別に特段優れてる訳でもない。好きでいろいろと試しながら遊んでるゲームもあるけど、格闘ゲームとかは下手の横好き(守り)。

  • 漫画・アニメ・小説

数だけはそれなりに大量に見てるけど、何かの作品について語り尽くしたりってのはあんまりしない。気にいった作品は手元に残しておいて、定期的に繰り返し楽しむ派(守り)。



とりあえず長時間、長期間ハマってるものをいくつか書いてみたけど、それ以外にも家庭菜園とか、洗車道とか、他にもハマってるものはある。好奇心溢れる、いわゆる多趣味な人なので、趣味で何かを為す!的に突き抜けるのは無理そう。

Appleが恒例のAppダウンロード数カウントダウンキャンペーンを実施、今度は500億ダウンロード。


iTunes - Apple(日本)

Appleが恒例のダウンロード数カウントダウンキャンペーンを行うようです。今度のは500億アプリケーション。



500億番目のアプリケーションダウンロード者に10,000USドル分のApp Store Card、500億1番目〜500億50番目のダウンロード者には500USドル分のApp Store Cardをプレゼントだそうです。このキャンペーンはApp Storeでアプリをダウンロードすれば自動参加になりますが、それだけじゃなくてオンラインエントリーサイトからダウンロードしなくても応募することもできるそうです。



Appleのこの種のキャンペーンはもう恒例行事っぽい感じになってますが、過去のキャンペーンが何時頃に実施されてたかをちょっと調べてみました。

  • 2008年7月10日:App Storeの開始
  • 2008年9月9日:App 1億ダウンロード
  • 2009年4月24日:App 10億ダウンロード
  • 2009年9月28日:App 20億ダウンロード
  • 2010年1月6日:App 30億ダウンロード
  • 2011年1月23日:App 100億ダウンロード
  • 2012年3月5日:App 250億ダウンロード
  • 2013年1月7日:App 400億ダウンロード


同じく、iTunes Storeでの音楽配信の販売数も見てみました。

  • 2003年4月28日:iTunes Music Storeの開始(後のiTunes Store
  • 2004年7月11日:1億曲ダウンロード
  • 2005年8月4日:日本でのiTunes Music Storeの開始
  • 2006年2月24日:10億曲ダウンロード
  • 2007年7月31日:30億曲ダウンロード
  • 2008年6月19日:50億曲ダウンロード
  • 2010年2月25日:100億曲ダウンロード
  • 2013年2月7日:250億曲ダウンロード

両方を較べてみると、Appが250億ダウンロードまでにかかった日数は2008年7月10日〜2012年3月5日で約3年8ヶ月、一方の音楽配信は2003年4月28日〜2013年2月7日で約9年9ヶ月です。それぞれが開始された時期、環境などが違いますから単純には比較できませんが、Appの方が音楽よりもダウンロード数が多いようです。Appの方には無料のがあること、カバーする範囲(ジャンル)が広範囲に渡ること、辺りが理由でしょうか。



自分のMaciTunesライブラリを見てみたら、ダウンロードしたAppは425本、購入した音楽楽曲は112曲でした。やっぱAppの方が多い?

パッケージではなくダウンロード販売でゲームを購入するときに感じること

最近購入した3DSWii U、両方ともプレイしてるソフトのほとんどをダウンロード版で購入してます。



いちいち別のゲームをする度にディスクやカセットなんかを交換するのはずっと面倒に思ってたし、部屋にゲームソフトが溜まっていって置き場が無くなるってのも気になる所だったし、欲しいときにわざわざ店に出かけること無く売り切れの心配なしに購入できるダウンロード版があるってのは嬉しいことなんだけど、100%安心して買ってる訳ではありません。



以下、ダウンロード販売のゲームソフトを購入しながら感じてること。

  • パッケージ版と値段が変わらないのは腑に落ちない

ダウンロード版のソフトを購入するってことはゲームソフトのデータだけダウンロード購入するってことで、パッケージ版であるゲームパッケージ、マニュアル、ディスク等々は全て手に入りません。しかも、ゲームハードメーカーが直接運営してるネットショップからダウンロード購入することがほとんどで、問屋や店舗みたいな中間マージンがかかる部分は存在せず直接メーカーから購入してることになります。

それにも関わらず、パッケージ版とダウンロード版で価格が同等、しかもダウンロード版はショップが付けた価格そのままでパッケージ版はあちこちの店舗で割引価格で買うことが可能な現状だと、パッケージ版とダウンロード版の価格が同じ設定だと、実購入価格はパッケージ版<ダウンロード版となることが少なくありません。

ダウンロード販売のためのインフラにコストが掛かるのが分かりますが、パッケージ版からダウンロード版になって浮くコストとそれが同等とは思えません。


  • 本体や保存メディアの故障で再ダウンロードできるとしてもセーブデータがどうにもならない

たいていのダウンロード販売では、故障等でゲームソフトデータを消失してしまった場合に再ダウンロードできることが説明されていますが、ユーザーがプレイしたゲームのセーブデータに関してはどうにもなりません。ゲーム機がネットワークに繋がってるのがほぼ当たり前と化している今、もっと積極的にゲームセーブデータのクラウド保存サービスを普及させてもらいたいところ。これはダウンロード版だけじゃなく、パッケージ版でも有効なサービスでしょうし。

できれば、全てのゲームがセーブデータクラウド保存サービスに対応してくれるよう、ゲームハードメーカーが音頭を取って進めてもらいたい。


  • インストールが面倒

これはちょっとわがままな感想なのかもしれませんが、ダウンロードに何十分、何時間もかかった後、ようやく完了して、いざプレイ!ってところで、インストールが始まってまた何十分も待たされるってのはがっくりきます。ダウンロードとインストール、合わせて一つのプロセスとして見せるとか、なんていうか無駄に待たされる感を感じさせないUIを望みます。




ゲームではありませんが、AppleiTunes store音楽配信とかAmazonKindleストアで購入した電子書籍とか、ダウンロードで何かを購入するってことに対する配慮が結構行き届いてて、使ってて気持ちいいんですよね。iPhoneで曲やアプリ購入したら、MaciPadにも自動でその曲ダウンロードされるように出来たり、kindle電子書籍を読んでてiPhoneで途中まで読んでた続きをiPad開いてそのまま読めるとか。

そういう細かいところにこだわるのが日本製品の売りだったのはもう昔の話なんでしょうか? モノではなくデータの取り扱いとかシステムの話ですが、そういう気遣いが感じられるサービスがこれからは受け入れられていくんだと思います。

ゲームの歴史は続くよ、いつまでも

最初にゲームと呼ばれるものをプレイしたのって、任天堂ゲームウォッチだろうか。1980年くらいの話だから、今から30年ちょっと前のこと。それからファミコンセガマーク?のような家庭用ゲーム機、8bit PCと呼ばれてた時代のパソコンなどでゲームに興じるようになり、一体何本のゲームをプレイしてきただろう。正確に数えたことは無いけれど、たぶん数百本は確実にプレイしてきている。

考えてみれば、日本におけるゲームの歴史は1970年代後半くらいからで、始まりの頃こそ実体験では知らないけれども、かなり初期の頃からずっとゲームという文化が発展していく様を体験してきた。家庭用ゲーム機の進化の歴史、携帯ゲーム機の普及、携帯電話からスマートフォンへと続く新たなゲーム市場、ゲーム機とはまた別なPCゲームなどなど。



何十年にも渡ってゲームをプレイし続けてきてるのは、ゲームをプレイして感じるワクワク感、爽快感、作り手が作り込んだ世界を体験する楽しさがあるから。



最初の頃のゲームの進化は、それまで無かったような新しいアイデアなゲームがどんどん登場するというソフト的な部分と、ゲームを表現するハードウエアの進化という両面が共に低い段階からどんどん進化していくという、両方の要素が絡み合いつつどんどんゲームの世界が広がっていくのがたまらなくワクワクする時代だった。

ハードウエアが進化し表現力が増すと、それによって実現できるゲームの世界の幅もまた広がる。拡大収縮回転、ポリゴン、通信機能、容量拡大、入力機器の進化、こうした大きな変化以外でもハードが変わる度に画質、音質、操作性、反応速度などそれぞれの要素も少しずつ進化し、ゲームの世界が広がっていく。



時代の最先端をゆくアーケードゲーム機のゲームが、それより劣る性能の家庭用ゲームに移植されるのを待ちわびていた時代。それが交錯して同化してしまったのは2000年くらいだろうか。ゲーム機のハードウエアの進化はいまでも続いているけれども、進化したハードでゲームを作りこむ=大作で大きな売上を出さないと開発費を回収できない、ということでもあり、マンネリ化した続編ばかりが登場するようになった。



そして、携帯ゲーム機とは違う形でのモバイルゲーム環境、携帯電話〜スマートフォンでのソーシャルゲームが急激に広まる時代が今。ゲームと呼ばれるものの進化の方向が、より進化した大作へと進んできた今までとは違う全く別の方向、ソーシャルにいつでもプレイ出来てちょっとした時間の暇つぶしを担うゲームの台頭で大きく方向転換しつつあるのがここ数年の流れ。

暇をつぶすためにゲームをすることは殆ど無いので、ソーシャル系なゲームに関してはほとんど興味無いんだけど、ゲーム業界がそっちの方向に大きくシフトしてしまい、従来型なゲームが減ってしまうってのは困るよなあ、と思いながらゲーム情報を見る日々。



一ゲーマーとして、自分が好きなゲームがこれからも出続けてもらうために出来るのって、ゲームを買い続けること。まあ、それはゲームに限った話じゃないけど。生涯ゲーマー現役だとしたら、もう折り返し地点は超えてる辺りなんだろうけど、これから残り半分弱でどんな新しいゲームに出会えるかを楽しみにしてます。

GW中にアレだけは終わらせておきたい

今年のGW中にやっておきたいこと、出来たこと出来なかったこと、いろいろあったけどもそろそろGWも終わりだな………とか考えてたら、大事なこと忘れてた。



車のタイヤ交換。



北海道は冬、スタッドレスタイヤを装着してるので、雪が降らなくなる時期に夏タイヤへと交換作業をしなくてはならなくて、道南のこの辺の地域だと4月下旬〜がその時期になるのです。今年はGWでのんびり交換すればいいや、と思ってたら、もう残す所あと少しに。こういう時に限って、雨降ったりしてなかなか交換できないんですよね。


今年の北海道は、GWに入ってからも雪が降ってる地域も結構あるみたいで、峠越えしたり、道東道北方面にでかける予定があればもうちょっと先のタイヤ交換にするんですが、さすがに出かけても札幌程度までなので、さっさとタイヤ交換してしまわないとなあ。

劇場版 STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴを見たら、次は線形拘束のフェノグラム、ってことでプレイ中

STEINS;GATE 線形拘束のフェノグラム (通常版) - PS3

STEINS;GATE 線形拘束のフェノグラム (通常版) - PS3

シュタインズ・ゲートの新作「線形拘束のフェノグラム」をプレイ中。



今作は本編を補完する意味合いなストーリーで、10人の登場人物それぞれの視点からのシナリオが用意されてるのを、岡部、ダル、鈴羽のシナリオまで3つクリアした所。どのシナリオも台詞聞きながら読んで数時間(2〜3時間?)ってトコでしょうか。さて、次は誰のシナリオをやろうか………。

本編は主人公たる岡部の視点だったので岡部自体が画面に出てくることは少なかったんですが、今回は他の登場人物達の視点からみたシナリオになってるので、岡部がよく画面に出てきます。やっぱ傍から見てるとウザイキャラですねw



あ、そうそう、今作は各シナリオが独立してて、それぞれを読み進める形のゲーム……ノベルゲー?になってます。本編みたいなメールによる分岐とかでは無いので詰まることはない、のかな? 今のところただ読んでるだけで各シナリオの最後まですんなり進んでます。



前に出たファンディスク「STEINS;GATE 比翼恋理のだーりん - PS3」が本編とは結構離れた世界線の話で、登場人物や設定を踏襲してるもののかなりイメージが違う二次創作的な展開だったのに対し、今回の「STEINS;GATE 線形拘束のフェノグラム (通常版) - PS3」は本編と交わるような近い世界線を登場人物それぞれの視点から見てるシナリオ展開なので、本編をクリアした後で更にシュタインズ・ゲートの世界を堪能したい人には待ってました!的な内容ですね。本編クリアが大前提な内容ではありますが、本編気に入った人ならプレイして間違いなしでしょう、うん。



3枚発売されてたドラマCDのα、βが今回の「STEINS;GATE 線形拘束のフェノグラム (通常版) - PS3」に近いノリ。

γはファンディスク「STEINS;GATE 比翼恋理のだーりん - PS3」に近いノリでしたね。

インターネットに「なまはげ」達はもういるけど、もっと必要なんだろうか?

インターネットには「なまはげ」が必要だ - シロクマの屑籠」を読んで。

ネットの世界にも「なまはげ」のような「悪い子を見つけて教育的指導を与える」的な存在があってもいいんじゃないかという話。


誰が「なまはげ」になりうるのか、またそれは正しいのか


残念ながら、ネット上では誰が本当の「なまはげ」で誰が偽物の「なまはげ」か見分けが付かない。自分勝手な自己ルールで「なまはげ」的役割を演じている人もいるし、そもそもネット上には意味不明な理由で他人に噛み付く魑魅魍魎が蠢いている。



そういう「なまはげ」的な何かに噛み付かれないように行動するってのもネットを渡り歩いていくひとつの学習なのだけれども、そうなるとたぶん一定以上注目を集めるべきではない、という学習もしてしまうだろう。目立てば目立つほど魑魅魍魎に噛み付かれる可能性が上がるのだから。


なまはげ」は本当に世の中を正しい方向へと導くのか?


「悪い子を見つけて教育的指導を与える」ってのは、「なまはげ」では「悪いことをするとなまはげがやってくるよ!」という恐怖の喚起によって、悪いこととされることをすると恐ろしい体験をするよ、という脅しで悪いことをさせないようにしようということ。


これって、悪いことをさせなくするという意味では一定の効果はありそうだけども、悪いことが何故悪いことなのかってトコには踏み込まないって意味で、ネット活用で考えれば、単にネットを全般的に利用しなくなるとか言うような、よく分からないけどおっかないから近付かないでおこう的な形に終着してしまうんじゃないかという気がする。本来はリテラシーってことを考えて欲しい、気をつけて欲しい、はずが、ネットは怖いから使わないで置こう、では、「悪いことをしてしまった」という問題の対策としては悪手ではないだろうか。



かくいう自分の体験でも、明らかに自分に非があると分かる行動の場合には、悪いことをしていると諌められた時に納得がいったけれども、文句は言ってくるものの何がどう悪いのかを明らかにせずに単に噛み付いてくるような人には、結局その人は何に対して怒っていたのか分からずモヤモヤしたまま、という「だから、何?」みたいな形で終わってしまったことがあった。あれは「なまはげ」のフリをした何かだったんだろうか。


集団としての「ネットなまはげ


今の時代のネットにおいて「ネットなまはげ」たるような人がどれだけいるのか疑問だけれども、人の道を踏み外した、やってはイケないことをやりすぎた人達に対しては、集団としての「ネットなまはげ」達がどこからともなく現れ、あっという間に喰い尽くされるという形で実装されている。言うまでもなく、日々ニュースを賑わしているやらかしてしまった人々の話題がそれだ。


本人たちの行動が祭り上げられ、あっという間に個人情報が特定され、粛清される。たぶん、今の時代だからそういう行動をする人が増えたのではなく、昔からそういうことをする人々がいたのが、今は自分からそういう行動を誇示するためにネットという手段を使ってしまい、「ネットなまはげ」達に襲われるという図式。



気になるのは、「ネットなまはげ」達の行動を見てると、「自分たちは悪いことを正すという正しいことをしているのだから何をしても許される」という神のような自意識になっちゃってる人が見受けられること。「悪いことを正すためなら何をしてもよい」なんてことはもちろんなく、単に匿名な集団を隠れ蓑にして正義の使者たる満悦感を味わいたいだけ、なんだろうけど、そういう人達が「ネットなまはげ」を作り上げている。「悪いなまはげ」は誰が断罪するの?という問題は残る。


「ネットなまはげ」達が止められないまだ見ぬ悪事


ネットでいろいろやらかしてしまった人々のニュースは後を立たないどころか、日に日に勢いを増している。「ネットなまはげ」達があれだけ、いろんな悪事に「悪い子はいねがぁ!!」してるというのに。たぶん、そういう悪事をしでかしてしまう人達の目にまだ「ネットなまはげ」の勇姿が届いていないのだろう。じゃ、もっともっと「ネットなまはげ」達が増えればいいんだろうか?



たぶんそうではないだろう。ネットうんぬんの前に悪事をしでかしてるってところが問題であり、そこが解決しない限り「ネットなまはげ」に襲われる人々は減らない。むしろ、ネット環境が普及している途中な現在、ネット環境があまねくすべての人々に広まらない限りはそういう事例は増えていくだろう。これは、ネットに関係なく日常的にそういうことをしないという教育が行き渡らない限り無くならない問題。


学習が必要なのは子供?大人?


ネットで世の中の様々な人の発言が見られるようになって感じるようになったのは、年齢と中身の成長度って比例しないよね、ってこと。歳が若くても立派な考えもって活動してる人もいれば、歳取っててもひたすら他人の揚げ足取りに終始する人もいる。個々のスキルにおいてもそうで、ことネットリテラシー的な能力も大人だからと言って子どもよりも高い能力があるとは限らない。その人がネットと触れ合ってきた時間やどんな体験してきたかによるので、もう今の時代だと子供より大人の方がネットリテラシーの教育が必要なのかもしれないと思うほど。



ただ、ネットリテラシーの土台となる部分で社会一般の常識というか、知識というか、そういうものが必要となることもあり、子供の場合には現実とネットでの体験で、ともすればネットでの体験の方がリテラシーを必要とされるシチュエーションに先に遭遇してしまうことがあるのではないか?という気がする。現実での社会常識を身につけないうちにネットの海に出てしまうと痛い目に遭いやすい、というかやってはイケないことをしてしまいがち、そしてその反動はより大きいという。


そういう意味で子供にいつからネットを自由に使わせるか、どこまでの自由度で使わせるか、というのは難しい問題なんだと思う。


ネットならではなリスクを学習する場はもっと必要かも


現実とネットで大きく違うのは、「情報拡散の可能性、速度、アーカイブ化」。ネットで何かを情報発信するというのは、「世界中の人々が読むことができる可能性」があり、「たった一晩で地球の裏側まで行き渡る速度」をもち、「一旦発信した情報はどこかにアーカイブ化され残りうる」ということ。こうやって文章にして書くのは簡単だが、実際にこれを意識できるかというと難しい。自らの体験の範囲を超えた現象は認識しづらいから。



分かりやすい話だと、ネットで口にしたたわいもない誰かへの悪口がその本人に読まれてしまう、みたいな事例がある。まさか本人の目に届くとは思わなかった、読まれるとは思っていなかった、読まれても気にするとは思っていなかった、あなたは有名人なのだから自分みたいな一個人の悪口なんて気にしてはいけない、などなど。

ネットというのは現実とは違い、立場・場所・時間などさまざまな壁を乗り越えてすべての参加者をフラットな状態にしてしまう。ネットで悪口を書いた人が、本人の目の前で同じ事を言えるか?言えないなら書くべきではない、ってこと。



こういうネットで情報発信をすることの意味を学習する場ってのは、仮想的な学習空間でもよくて、元記事で紹介されているような試み(Twitterで大失敗をやらかす前に――バンダイナムコが小学生向け仮想空間 -INTERNET Watch Watch)は有意義であると思う。むしろ、大人にも必要なのかもしれない。